Posted on 01/03/2016 at 03:32, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『最後の晩餐』(ヨベルの年 第17週)(2016.1.3)

 

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

(マタイ福音書26章28節)

  • はじめに…元旦は、私たち二人だけの礼拝かと思いきや、大人数(と言っても5人ですが)で礼拝を捧げられ、感謝でした。2016年も、霊とまことを尽くした礼拝を毎週捧げられるよう、願っています。
  • 香油を注ぐマリヤ…前回(年末)は、山上の垂訓を、上から目線ではなく座して語られたイエス様を覚えました。今日は、十字架を前にして最後の晩餐のときを弟子たちと過ごされたイエス様を覚えたいと思います。最後の晩餐の6日前、イエス様はベタニヤのラザロ・マリヤ・マルタの家に滞在していました。そこでマリヤはイエス様に、おもてなしとラザロを生き返らせて頂いた感謝を込めて、ナルドの香油3百グラムを注ぎました。当時の1年間分の生活費に相当する高価なものでした。
  • 感謝に憤慨する弟子たち…この純粋なマリヤの行為に対してユダはじめ弟子たちは憤慨して、「高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」(マタイ26章9節)と非難しました。これに対してイエス様は、マリヤが香油を注いだのは「わたしの埋葬の準備」(同12節)と香油注ぎの真意(みこころ)を明らかにされました。弟子たちの(経済合理性から来る)憤りが的外れであることと、マリヤの感謝の行為が、さらに深い主の愛のご計画に用いられることを明らかにされたのでした。人間のモノの見方、行為は、非常に偏っており、また、限定的です。
  • 十字架を前にして祝福し感謝を捧げる主…それに対して主の御思いと御意は、一途であり、無限の可能性に開かれています。晩餐の席で、しかも翌日には十字架の苦しみと死が待っているにも関わらず、弟子たちを祝福し、父なる神に感謝を捧げました。罪の赦しは、口先三寸で出来るものではなく、自ら罪人の身代わりとなって血を流す決断が必要不可欠です。イエス様は、私たち一人ひとりのために身代わりとなって血を流してくださったのです。
  • 結び…主から頂いたいのちです。新しい1年、皆さんお一人ひとりに託された主の使命をまっとうされるよう、祝福して祈ります。
Posted on 01/01/2016 at 10:35, by matsumoto

2016年元旦礼拝メッセージ要約『野の草として』(2016.1.1)

本日1月1日午後2時から元旦礼拝を執り行います。どなたでもお気軽にお越し下さい。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。(マタイ福音書6章30節)

    • はじめに…主の年2016年、明けましておめでとうございます。新しい年、主がいつくしみと恵みとで、初めから終わりまで皆さんの上に満ち溢れる年となるよう、心よりお祈りいたしします。
    • テーマは…さて、今年のいとすぎ教会の主題は、『野の草として-置かれたその場所で』とさせて頂きます。昨年末の出会いと導きのなかで、主から示された主題です。①シオンの丘の上教会のS先生のご主人とのお交わり、②Iさんとのお交わり、③聖地巡礼に導かれるなかで、示されたものです。
  • 高嶺の途上で…Sさんの趣味は登山だそうです。山頂に立つ、その達成感は何ものにも代えられない感動だそうです。その山頂までの途上、いろいろな高山植物を目にするそうですが、その健気さ、美しさに出会うことは、山頂に到達することに勝るとも劣らない体験だとのことです。
  • 病のなかで…Iさんは、十数年前から難病を患い、ほとんどベッドに寝たきりの状態です。けれどもその病を嘆くことなく、反対に「病を通して主を証する機会を神様が与えて下さっておられることが恵みで、感謝です」とおっしゃっておられます。
  • 西壁の草として…今年1月、もうまもなくですが、主が私を聖地イスラエルに招いて下さっています。エルサレム神殿が紀元60年に破壊されましが、その城壁の一部がそのまま残存しています。「西の壁」または「嘆きの壁」と言われているものです。その石積みの壁の隙間に“ツェロフハデ”という、つる草が生えています。ツェロフハデは環境に左右されない生命力の強い植物です。タルムードに、地球が滅んでも最後まで生き延びる被造物のひとつとしてあげられているほどです。
  • 結び…「置かれた場所で咲きなさい」とノートルダム清心学園の渡辺和子シスター(88歳)は言います。2016年、置かれた場所で咲く野の草として生き、主に信頼し、出会う一人ひとりの隣人となっていく私たちでありますように。
Posted on 12/27/2015 at 04:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『山上の垂訓』(ヨベルの年 第16週)(2015.12.17)

 

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。(マタイ福音書5章1-2節)

    • はじめに…クリスマスが過ぎ、いよいよ主の年2016年に向けて、歴史の“聖なる扉”が開かれようとしています。主の導きの中、来年早々に聖地巡礼の旅に出かけることになった訳ですが、出発までの3回の主日、その訪問地にちなんだ御言葉からともに聴きたいと願っています。
    • 観光ではなく信仰… かつて隠れキリシタンについて調べていたことがあるのですが、その取材のために長崎の「日本二十六聖人記念館」に出かけました。そこで結城了悟館長(当時)から言われた言葉“信仰と観光は違います”。それ以来、この言葉は私の座右の銘となっています。ですから今回の旅行は観光ではなく、主の御言葉を聴く信仰の歩み出しなのです。
    • 座して語られたイエス様…訪問地のひとつに「山上の垂訓教会」があります。イエス様が山上の垂訓を語られたガリラヤ湖畔の小高い丘に建てられた教会です。ここにイエス様が座られて、口を開かれたのです。ひと昔前の日本の家庭でも、父親が家族に大切な話をする際に、座って話をしたように、イエス様も座って話し出されたのです。
    • 開口一番…開口一番、「心の貧しい者は幸いです」(「心底貧しい人たちは神からの力がある」・本田哲郎訳)(マタイ福音書5章3節)と語られました。〈心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人、お金もない、地位もない、体も弱い、知識もない。己にたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たち〉(三浦綾子著『新約聖書入門』より引用)です。そして「悲しむ者は幸い、柔和な人は幸い…」と、イエス様は“八福の教え”を、絶対的な権威をもって語られました。語られるだけではなく、主は、その語った真実を生き抜かれました。座(坐)して語られる者の責任を完結されました。罪を犯さざるを得ない私たちと連座され、私たちの罪を負い、身代わりとなって十字架の裁きを受けられたのです。
  • 結び…残すところ2015年も今日を含めて5日。一日いちにち、主の語られる御言葉に耳を傾け、御言葉を生きる皆さんであるよう、祝福して祈ります。

 

Posted on 12/20/2015 at 04:00, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『埴生の宿に来られる主』(ヨベルの年 第15週)(2015.12.20)

 

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2章7節)

    • はじめに…カトリックでは、毎年12月8日を、マリアの「無原罪の御宿り」の祝日として記念しています。また今年は特別に、この日から来年にかけて「いつくしみの特別聖年」が開年されました。ユダヤ暦では9月からヨベルの年、すなわち解放の年として幕が開けています。今年のクリスマス(主の誕生)から始まる歴史は、いつくしみと解放が、より重要なテーマとなるでしょう。
    • マリアのキャンドル…今日はアドベント第四主日です。4本目のキャンドルに火が灯りましたが、これは「マリアのキャンドル」です。マリアが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。
    • ナザレからベツレヘムへ…皇帝アウグストから「住民登録をせよ」という勅令が出され、その登録のためヨセフとマリアは、、ナザレからベツレヘムまでの約160キロの道のりを歩いて旅しました(一日40キロ歩いたと仮定するとちょうど今日、ナザレから旅立った)。人の思惑と神のご計画は横糸と縦糸としてしっかり結び合わされています。救い主がベツレヘムから出ることは、すでに主のご計画として預言されていました(ミカ書5章2節参照)。またマリア自身も御使いガブリエルから直接、その知らせを受けていました(ルカ福音書1章28節参照)。みことばが長旅に耐える力の源だったことでしょう。
  • 家畜小屋…足を引きずるようにしてベツレヘムに到着したものの、宿屋には彼らの泊まる場所はなく、やっと腰を下ろすことができたのは家畜小屋でした。日本の歌百選のひとつでもある「埴生の宿」(埴生の宿も わが宿…)という唱歌がありますが、その埴生の宿=土間にじかに筵(むしろ)を敷いて寝る粘土で作った家=が、わが家であって、宝石を散りばめたような素晴らしいところもうらやましくない…と歌っています。家畜小屋、埴生の宿で、救い主イエス様はお生まれになられました。家畜小屋。世から見れば何の価値も無いような所に、否、そこにこそイエス様が真っ先に来てくださいます。
  •  結び…皆さんの内に、主イエス様が来てくださることを期待し、祈ります。
Posted on 12/13/2015 at 03:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主イエスは素晴らしい』(ヨベルの年 第14週)(2015.12.13)

 

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節) 

 

  • はじめに…国際宇宙ステーションに約5カ月間滞在していた油井亀美也(ゆい きみや)さんが11日夜、ロシア宇宙船ソユーズで、カザフスタンの草原地帯に無事帰還し、駆けつけた関係者に「ただいま。体調は大丈夫です。重力を感じます。宇宙もすばらしいけれど、地球もすばらしい。冷たい風が心地よい。ツイッターをフォローしている人がたくさんいるので、発信していきたい」
  • バプテスマのヨハネのキャンドル…今日は待降節(アドベント)第三主日です。3本目のキャンドルに火が灯りました。この3本目のキャンドルは「バプテスマのヨハネのキャンドル」で、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しし、悔い改めを迫ったバプテスマのヨハネを象徴しています。
  • 荒野の声…バプテスマのヨハネは、主イエス様の親類(ルカ1章36節参照)で、イエス様より半年早く生まれています(ルカ1章26節参照)。ヨハネの働きは、その父ザカリヤを通して預言されています(ルカ1章76-79節参照)。その預言通りにヨハネは、自分自身のことを「私はキリストではありません」「エリヤでもありません」「(モーセのような)預言者でもありません」と告げた後、「『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」と告白しました(ヨハネ1章20-23節参照)。“声”そのものは、ある内容を伝えた瞬間に、消えて無くなります。自分の役割を“声”と断言するヨハネには「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3章30節)という、潔さがあります。
  • 主告白…ヨハネが最初に主イエス様を人々に証ししたことばは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)でした。地球に帰還した油井さんは「宇宙もすばらしいけれど、地球もすばらしい」と言いましたが、私たちは「宇宙を創造し、地球を保っておられる主イエス様はすばらしい」という告白する声です。
  • 結び… 今週、「主はすばらしい」と告白する皆さん一人ひとりであるよう、祝福して祈ります。

 

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