Posted on 05/05/2024 at 09:01, by matsumoto
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(…) (イザヤ53章4節) /(…)彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。(マタイ8章17節)
◆はじめに…毎週土曜日の午後、目の不自由な方の朗読のボランティアに出かけていることは以前、お話しました。その朗読している『苦海浄土』の裏表紙には次のように書かれています。「公害という名の恐るべき犯罪、“人間が人間に加えた汚辱”、水俣病。昭和二十八年一号患者発生来十余年、水俣に育った著者が患者と添寝せんばかりに水俣言葉で、その叫びを、悲しみ怒りを自らの痛みとして書き綴った《わがうちなる水俣病》。凄惨な異相の中に極限状況を超えて光芒を放つ人間の美しさがきらめく。」
◆苦難のしもべ…今日のテキストのイザヤ53章は、“第五福音書”とも呼ばれるほど、有名で重要な箇所です。そして「苦難の僕」の姿をとったメシヤとして預言され、新約においてイエス・キリストの姿において実現したとキリスト教界は解します。しかしながらユダヤ教のラビ(ほんの一部の除き)たちはそのようには理解せず、シナゴーグにおいてもイザヤ53章の朗読は意図的に避けています。それほどイザヤ53章はユダヤ教にとっては不都合な箇所であると言えます。逆に言えば、ここに、ユダヤ教、キリスト教双方の枠を超えた真理(真実)が秘められています。
◆イエス様による病のいやし…マタイ8章はイエス様の数々のいやしの御業が記されてあり、それらのいやしの御業が、預言者イザヤの預言の成就の出来事の現れなのだとマタイは記しています。それは十字架の出来事によって完全に成就しました。病人のいやし然り、十字架の罪の贖い然り、イエス様は出会う人々の切なる訴えを聞き(傾聴)、また弱り果て、困り果てている状態を見、心動かされ、魂を揺さぶられ(共感、共苦)、父なる神に祈り、御声を掛け、手を伸ばし、いやされました。病、悩み、痛みを自分事として引き受け(共担)、傍らにおられ、同伴(インマヌエル)しました。まさに病で伏している幼子に添寝するようにイエス様は私たちと共にいて下さいます。それは世の終わりまでです(マタイ28章20節)。
◆病とわずらいのただ中で…病、わずらい、痛み、苦しみは、私たちが生きている限り、身に降りかかってきます。時に耐えられず、神の存在を疑ってしまうこともあるかも知れません。見失ってしまうことがあるかも知れません。しかし、その苦難のただ中に、背きのただ中に、イエス様が同伴して下さっていることも事実です。そして絶えず、とりなしの祈りをもって私たちを支えて下さいます。
◆結び…イエス様は、いつも私たちと共にいて下さいます。
Posted on 04/28/2024 at 17:30, by matsumoto
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。(…) (イザヤ52章7節) /遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」(ローマ10章15節)
◆はじめに…先週22日は、私たちの結婚記念日でした。恩師/福井正躬牧師の司式にて、南名古屋キリスト教会で結婚式を執り行って頂きまました。思い返してみると、結婚に際して、私が眞津代牧師に伝えたことは、①“薄皮の大福もち”②“盲導犬”役になりましょう、でした。今もその心持ちは変わらないのですが、実際となると甚だ心許ない限りです。
◆キリストから引き離されても…今日のテキストのローマ書10章を9章からの文脈で見てみると、その冒頭、パウロは次のように語っています。「(…)できることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(ローマ8章3節)と。同胞イスラエル人が救われるためだったら、自らの生きた心臓をそのまま差し出し、死んで黄泉に降ることも厭わないとの覚悟です。
◆主の愛は選民ユダヤ人に止まらない…その自らを完全に差し出す覚悟をもって、使徒として福音を告げ知らせている、それはすべて主のあわれみと愛のご計画なのだ、そうパウロは10章全体を通して語っています。そしてその主のあわれみと愛は同胞ユダヤ人だけに止まらず、異邦の民、すべての民にまで及んでいるのだと語りました。
◆主の愛とあわれみ…主は、ご自身のあわれみと愛を、異邦人とイスラエルの民双方に対してどのように現したのか、10章の最後の2節で語っています。「(…)わたしを求めない者に見いだされ、たずねない者に自分を現した」「(…)不従順で反抗する民に対して、一日中、手を差し伸べた」と。そのことをパウロ自身がもっとも良く理解していたことでしょう。キリスト者迫害の急先鋒として立っていたところに、復活のイエス様が直接、御声を掛けられました。しかも罰したり、断罪したりするのではなく、福音の使者として用いてくださったからです。イエス様は、罪の世、闇の世に迷える一匹の羊を、その足で見つけるまで捜し回り、見つけたら、担いで大急ぎで帰って来られます。そして言われます。「いなくなっていた者を見つけましたから、一緒に喜んでください」(ルカ15章4-6節参照)
◆結び…イエス様は、今日この瞬間も道に迷い、途方に暮れている尊い一つひとつの魂を、その足で捜し回っておられます。
Posted on 04/14/2024 at 19:39, by matsumoto
(…)わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする (イザヤ49章6節) /『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』(使徒13章47節)
◆はじめに…先週の水曜日の夜、大川キリスト教会の祈祷会に参加させて頂きました。み言葉の箇所は「イサクの誕生といけにえ」ということで創世記21章1節から22章19節でした。試練に直面したとき、み言葉に信頼して試練に立ち向かい、その結果、祝福される、というアブラハムの体験から、祈祷会の参加者一人ひとりの試練と祝福の証しを分かち合いました。大きな事故だったり、病いの試練を通して主が祝福して下さったそれぞれの証しから感動と励ましを受けました。
◆ユダヤ人の闇(迫害)を貫通して…今日のテキストの主題は「異邦人の光」です。パウロとバルナバは、聖霊に遣わされ、まず同胞であるユダヤ人に対して福音を語り(光を照らし)ました。しかし、ユダヤ人(の指導者層)は、光より闇を愛し、光を憎み、光のほうに来ませんでした(ヨハネ3章19-20節参照)。使徒の働き13章から本格的な異邦人伝道が始まったことが記されてありますが、その最初の出来事がローマの属州だったキプロス島の総督セルギオ・パウロが信仰にはいったことです。その後、パウロたちはピシデヤのアンテオケに移動し、会堂で宣教をする機会を得、大胆にイエス様の福音を語りました。いずれの場所においても、ユダヤ人の妬み、ののしり、迫害に遭いました。しかしユダヤ人が神のことば(福音)を拒んだことで、パウロらの異邦人伝道の歩みは加速していきました。かと言って主は、ユダヤ人(イスラエル人)をあきらめ、見放した訳ではなく、むしろ完全に救いに導くご計画を着実に進めておられることを、パウロはローマ書で語っています(ローマ11章25-28節参照)。
◆異邦人の光は…第一回伝道旅行で迫害に遭った際、パウロとバルナバは、今日のテキストの箇所を語りました。「『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」と。このみことばを聞いた異邦人は主を賛美し、信仰にはいり、一方でユダヤ人はパウロたちを地域から追い出し、益々、イエス様(いのちの光)を遠ざけました。
◆地の果て(底)まで救う…しかし、ユダヤ人がいのちの光なるイエス様を遠ざければ遠ざける程、異邦人は救われ、誰一人として主の愛からもれる者はなく、究極的にはユダヤ人も異邦人もすべての者が永遠のいのちに与り、とこしえにイエス様の愛のうちに生きる者となる、これが主のご計画に他なりません。
◆結び…新しい一週間も、主が御顔の光を照らしてくださることを感謝します。
Posted on 04/07/2024 at 16:19, by matsumoto
(…)わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。 (イザヤ45章21節) /そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。」(マルコ12章32節)
◆はじめに…先主日の夕方、名古屋に帰省した際、私たち夫婦とT姉とで会食の時を持ちました。お互いの近況報告と今後の歩みについて語り合いました。齢を重ね、身体も衰えていく現実を前にもがき、自分たちの弱さや愚かさを謙虚に認め、自分の思いや計画、あるいはサタンの策略ではなく、聖霊の満たしによって、主のご計画、導き、みことばに従うことで力が与えられ、希望が与えられることを確認し合う時でした。
◆主は唯一…今日のテキストの主題は「唯一の主(神)」です。主は、私たちの主であり、ヤコブの神、イサクの神、そしてアブラハムの神です。唯一無二の主であり、かけがえのない主です。そしてイエス様はおっしゃいました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」(マルコ12章27節)と。唯一の主は、復活の主であり、永遠のいのち、すなわち救いを与えてくださる主です。
◆神のものは神に…私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださる主に、私たちは、どのようにお応えすれば良いのでしょうか? イザヤはこのように告げています。「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」(イザヤ45章22節)と。「わたしを仰ぎ見よ」とは“わたしに顔を向けよ”という意味です。主は私たち一人ひとりと顔と顔を合わせて霊の交流を求めておられます。主の私たちに対する愛に対して、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛すること、礼拝することを通して、主から頂いたものを主にお返しすることで、益々豊かに聖霊に満たされ、生きる希望と力が与えられます。
◆隣人を愛する…主と顔と顔を合わせ、聖霊に満たされた私たちは、「自分自身のように隣人を愛せよ」(マルコ12章31節)と勧められるイエス様のみことばに励まされ、傷ついた者、倒れている者の傍らへと遣わされます。あるいはまったく逆に、迫害する者、倒そうとする者の傍らに置かれます。いずれにしても、主の愛に導かれ、具体的に手を差し伸べ、忍耐し、祈ります。
◆結び…唯一無二の神を愛し、かけがえのない隣人を愛すること。私たちと共に生き、この愛の両翼で天に向かって羽ばたき、また地上のすべてを包まれたイエス様に感謝します。イエス様の他に救い主はありません。
Posted on 03/24/2024 at 16:57, by matsumoto
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 (イザヤ42章3節) /彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導きまでは。(マタイ12章20節)
◆はじめに…先週の水曜日、出張で南九州地方連合の年次総会に陪席し、恵愛園のアピールをしてきました。私の役割は、「障害」者の方々が心を込めて作った、ぞうきん、ドレッシングの商品のおすすめでした。持って行った商品はほぼ完売でしたので、主のあわれみと手に取ってくださった方々の優しさに感謝しました。
◆傷んだ葦を折らず、燻る燈心を消さない…今日のテキストの主題は「主のしもべの召命」です。そのしもべの使命は「いたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12章20節)です。葦は、新芽は食用として、茎はフェンス、風よけ、間仕切り、屋根、籠等々。またトーラーの巻物を書くためのペンだったり、オーボエやクラリネットなどの楽器のリードとして使用され、多様な用途があります。しかし、傷んだ(抑圧された)葦は、価値がなく、役に立たない事の代名詞になっています。また、燈心は亜麻でできたランプの芯で、光を発し、家の中や周囲を明るく照らし出しますが、ランプの油が切れかかると燈心が焼けて、黒い煤と匂いを発生し、燻って、役目を果たせなくなってしまいます。
◆金の燭台…約6年前に幕屋について学びました。聖所の中に金の燭台(メノラー)が置かれ、その光によって聖所内が明るく照らされ、祭司が主に近づき、祈りと感謝と和解のささげものの奉仕が行なえます。もし、メノラーの光が無ければ、聖所は真っ暗闇になり、奉仕はおろか、主に近づくことが出来なくなってしまいます。イザヤもマタイも人々の霊的状況が、まさにそれと同様の状態になっている、そう指摘しているのでしょう。いたんだ葦、くすぶる燈心になっていると。
◆主の僕なるイエス様…しかし、イエス様は、いたんだ葦、くすぶる燈心を折らない、消さないと預言されています。それが主のしもべなるイエス様の使命であり、私たちの福音です。つまりイエス様がメノラーの支柱となり、六つの枝(葦=カーネ)、すなわち不完全な私たちを支えてくださり、聖霊なる油を注いでくださり、創造の主に近づけ、親密な交わりの中に入れてくださいます。
◆結び…イエス様は片手のなえた人(抑圧され疎外された人)の手を握り、真っ暗な穴から引き上げてくださるように、私たちの手を握り、支え、希望の光で道を照らし歩みを確かにしてくださいます。
〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕