Posted on 03/20/2016 at 04:27, by matsumoto
写真=ゲツセマネの園のオリーブ
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ福音書26章38節)
- はじめに…先日「ナガシマスパーランド」の北側約6ヘクタールにオリーブを植えて、観光農園を作るというニュースがラジオで流れていました。1000から1500本くらい植えて、5年後にはオリーブの実を収穫し、油を絞る施設も作る計画のようです。
- ゲツセマネ(油絞り)…シオンの丘の東にオリーブ山があり、その麓にゲツセマネの園があります。二階の大広間で最後の晩餐を終えたイエス様と11弟子は、祈るためにゲツセマネへ向かいました。ゲツセマネとは“油絞り”という意味です。そこでイエス様は人類史上最大の霊的苦闘=苦祷をしたのです。まさにオリーブの油絞り器で、その実が圧し潰されるように、血が滴り落ちるような汗を流し、悲しみもだえつつ祈られたのです。イエス様は弱さを持って祈りに向かわれました。
- 自己に信頼する弟子たち…一方、ペテロを筆頭にして弟子たちは、「決してつまずきません」「死んでもあなたを知らないなどと申しません」と自信たっぷりに豪語しまた。自分に自信があり、自己に信頼する者は、祈りを軽視します。自らの弱さを持って祈りに赴かれたイエス様と天地の差があります。自らの弱さを認め、父なる神に信頼する者は、死に打ち勝ち、自らを頼りにするものは、死を前にして逃げ去るのです。
- 聖霊の油…イエス様は、弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ福音書26章41節)と語られました。言い換えれば「父なる神様から離れないよう、心の燈火を灯し続けなさい」ということです。そのためには、聖霊の油が必要なのです。その聖霊の油を弟子たち(私たちも含め)に注ぐため、イエス様は、油絞り器で圧し潰されるオリーブの実となり、砕かれたのです (イザヤ53章参照)。
- 結び…受難週、ゲツセマネで私たちの罪を負い、苦しみもだえながら祈られた主イエス様を覚えつつ過ごし、自らの弱さを持って主の前に出て、感謝と賛美を捧げる皆さんであるよう、祝福して祈ります。
Posted on 03/13/2016 at 05:08, by matsumoto
写真=鶏鳴教会からヒノムの谷を見下ろして。左側にキデロンの谷
イエスはこれらのことを話してから、目(原語は複数形)を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。(ヨハネ福音書17章1節)
はじめに…先週、私たちは横浜へ出かけ、シオンの丘の上教会の皆さんとのお交わりの時を持ちました。聖地旅行の写真やビデオを見、過越しの食事の実際を体験しました。その日の夕方、近くに住んでおられる知人宅を訪問して、鍋を囲んで旧交を温めました。そこでアキアナというロシアの少女の画集を頂きました。とても8歳、9歳の子供が描いたとは思えない絵です。
イエス様の祈り…その中にイエス様を描いた2つの作品がありました。ひとつは「Prince of Peace:The Resurrection」(平和の君 復活)と題した正面を向いたイエス様、もうひとつは「Father Forgive Them」(父よ、彼らを赦したまえ)と題した、祈っているイエス様。
栄光…その祈りの姿勢は、両手の手のひらを上に向けて、しかと目を見開いて天を見上げています。まさに今日の聖書のテキストの箇所と同じ姿勢です。そのイエス様の顔を見て、映画「天国はほんとうにある」のモデルになったコルトン君が、「このイエス様の顔は本物」と言ったそうです。祈るイエス様は天からの光を受けて輝いているように描かれています。と同時にイエス様の内側から輝きが溢れ出ています。
将来を見据える目…ところで「父よ、彼らを赦したまえ」とイエス様が祈られたのは、ルカ福音書23章34節に記されてあるように、ゴルゴタの丘で十字架につけられた時のことです。とするなら、この題は、十字架につけられたイエス様を描いて付けるべきだと言えます。天を見上げて祈るイエス様にふさわしいタイトルは「Give glory to your Son」(あなたの子に栄光を与えたまえ)でしょう。なぜ、そうしなかったのでしょうか。それは十字架を前にして、すでに“時が来た”(ヨハネ福音書17章1節)“成し遂げた”(同4節)と、先取りして祈られていることから、赦しの御業を見据えておられるイエス様の御心を捉えてのことでしょう。イエス様は天を見上げ、将来を見据えて祈られる方です。
結び…新しい週、皆さんが天を見上げ、将来を見据えて祈られるよう、祝福します。
Posted on 03/06/2016 at 05:15, by matsumoto
写真=イエス様と弟子たちがゲツセマネへ向けて歩かれた石段
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ福音書15章5節)
- はじめに…先主日は、二階の大広間(マルコ福音書を記したマルコの実家)で過越しの食事の準備をしたところから、みことばを学びました。その後、イエス様と12弟子(途中でイスカリオテのユダは退座)は過越しの食事(=最後の晩餐)をしました。今日の聖書のテキストは、最後の晩餐の後、イエス様一行が、ゲツセマネの園へ向かう途中でのメッセージです。
- ゼツセマネの園に向けて…二階の大広間からゲツセマネの園までの距離は、約1・5キロ弱です。草木も眠る丑三つ時、満月の月明かりの下、城壁沿いにイエス様と弟子たちはゲツセマネに向けて歩いたのでしょう。そこには、ぶどう畑があったと思われます。
- わたし(主)はまことのぶどうの木…そこでイエスは口を開き、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(ヨハネ福音書15章1節)と語り出されたのです。イエス様はへブル語か、あるいはアラム語で語られたでしょうから「アノーキー・ハゲペン・ハアマティト・ヴェアービ・フー・ハコレム」と言うような感じで語られたでしょう。きっと弟子たちが見たぶどうの木は、季節からして、地に這うようして枯れているような姿のぶどうの木だったでしょう。“まこと”は真実、誠実、確実、真理の意です(エレミヤ2章21節参照)
- 父は農夫…農夫は収穫のために愛を注ぎ、労します。農夫は、ギリシア語で「ゲオールゴス」で、ゲー(地)+エルゴン(行い、業)です。父なる神は、天地の造り主であり、地に平和をもたらす方です(イザヤ2章4節参照)。
- あなたがたは枝…そして弟子たちと同様、わたしたちもまた、まことのぶどうの木につながる枝です(ヨハネ福音書15章5節)。この枝が豊かに実を結ぶように、農夫なる神様は手入れをして下さいます。ゆえにイエス様はわたしたちに“とどまりなさい”と語られます。
- 結び…新しい一日一日、皆さんが主につながり、みこころが地でも行われますように。
Posted on 02/28/2016 at 04:00, by matsumoto
写真=最後の晩餐の部屋(http://4travel.jp/より転用)
こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。(マタイ福音書26章15節)
- はじめに…夜空を見上げると、先週の半ば、満月だった月がだんだんと欠けていき、次の満月が来ると、“過越の祭”となります。そしてイースター(復活)を迎えます。
- 月明かりとサタンの闇…煌々と輝く満月が近づく時、サタンの闇が、イスカリオテのユダの心を覆ったのです(ルカ22章3節、ヨハネ13章27節)。ユダは、イエス様と他の弟子たちとともに、ベタニヤのらい病人シモンの家にいて、食事をしていました。そこでベタニヤのマリヤがイエス様に3百デナリに相当するナルドの香油3百グラムを注ぐという出来事があり、弟子たちは皆、その振る舞いに憤慨しました。しかしイエス様はというと、マリヤの行為を賞賛したのでした(マタイ26章12-13節)。
- 香油3百グラムと銀貨三十枚…その後、ユダはその場を退き、祭司長のところへ赴き、今日のテキストの言葉を語ったのです。銀貨1枚1シェケル=4デナリ相当だとすれば、30枚で120デナリです。現在の日本円にすれば120万円くらいでしょうか。この銀貨30枚というのは、聖書では奴隷一人当たりの代価です(出エジプト21章32節、ゼカリヤ11章12-13節)。つまり祭司長らも、ユダも、イエス様の価値を奴隷と同じと見なしたのです。
- 2階の大広間…ユダがわずか銀貨30枚と引き換えに、虎視眈々(こしたんたん)とイエス様を引き渡す機会をねらっている中で、イエス様はヨハネとペテロに過越の食事の用意をするようにと指示をしました。イエス様が指し示されたところは、旅人が一夜を明かす宿(へブル語訳でマーロン)ではなく、(後にマルコ福音書を記したマルコの実家の)2階の大広間(へブル語訳で“大きな寝床”を意味するゲドラー・メツァアハ)でした。そこはイエス様が地上の生涯でもっとも安息された場所だったでしょう。まさに「敵の前で食事をととのえ」と歌う詩篇23篇の成就です。この真実の過越の場に聖霊が注がれ、真新しい聖なる時代が幕を開けたのです。
- 結び…イエス様に香油を注いだマリヤのように、また、2階の大広間を提供したマルコの両親のように、主に捧げる一週間の歩みとなるよう、祝福し祈ります。
Posted on 02/21/2016 at 04:16, by matsumoto
写真=イエス様が祈られた山腹
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ福音書6章15節)
- はじめに…本主日は受難節第2主日です。イエス様が十字架を背負って歩まれた苦しみの道行きは「ビア・ドロローサ」(儀式用)と呼ばれ、14のステーションが設けられています。①十字架(死刑)の宣告を受ける⇒②十字架を受け取る⇒③倒れた⇒④マリヤと出会った⇒⑤クレネ人シモン⇒⑥ベロニカ(カペナウムでイエス様を触った長血の女?)がイエス様の顔を拭く⇒⑦二度目倒れる⇒⑧女たちに「私のことで泣くな」と言われる⇒⑨三度目倒れる⇒⑩裸にされる⇒⑪十字架に釘付けされる⇒⑫磔⇒⑬取り下ろされる⇒⑭墓
- イエス様を王に担ぐ…今日の聖書の箇所は、イエス様が5つのパンと2匹の魚を、集まった5千人の人々に分け与えられた奇蹟の直後の出来事です。当時、多くの人々は、ローマ帝国の圧政に苦しんでいました。そのような中で、イエス様の奇蹟やいやしを見聞きし、王に担ぎ上げようとしたのです。
- 十字架の道がイエス様の王道…しかしイエス様は、ひとり、山に退かれました。もしイエス様に政治的な野心があったなら、その人々の熱狂的な思いを背に、一大センセーショナルを巻き起こしたでしょう。しかしイエス様は、そうはなさいませんでした。イエス様が父なる神から託されていたのは“十字架の道”でした(ヨハネ2章19節)。イエス様は、人の思いや言葉におもねったり、引きずられたりされることはありませんでした。祈りによって父なる神の御心に耳を傾けられ、従順に御心を行われました(ヨハネ5章30節)。
- 恐れることはない…イエス様が山に退かれ、祈っておられる時、弟子たちは湖で強風に翻弄されていました。きっと恐怖で生きた心地がしなかったことでしょう。イエス様は、その弟子たちの情況を察知され、湖の上を歩いて近づかれ「恐れることはない」(ヨハネ6章20節)と声を掛けられました。依然として強風は続いていたでしょうが、舟は目的に着いたのです。
- 結び…「恐れることはない」と御声を掛けて下さる主に信頼して歩めますように。
|