Posted on 01/07/2024 at 09:00, by matsumoto
家を建てる者たちの捨てた(拒否、軽蔑された)石。それが礎の石(ローシュ・ピンナー=隅の頭)になった。(詩篇118篇22節) /あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった』(マルコ12章10節)
◆はじめに…新年、明けましておめでとうございます。皆さんにとって新しい年2024年が主の恵みとあわれみに満ちた年となるようお祈りします。昨年末、親しい友人知人と再会する機会が与えられ、元気な姿と良き証しを聞くことができ、感謝でした。また元日に久しぶりに映画を観にいきました。ディズニー100周年記念映画『ウィッシュ』。知人友人の証しと映画に共通していたことは、さまざまな困難、障害に遭っても希望を持ちつつ、その希望の実現に向け、自らの努力を惜しまなかった、ということです。
◆新年の主題…いとすぎ教会の2024年の年間主題は『朝ごとに新しい』(『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。』(哀歌3章22-23a節/新改訳))です。期せずして、2001年、私たちの最初の赴任地、壱岐教会の主題と同じになりました。2024年は年明けから地震や航空機事故、火災等、波乱の幕開けとなっていますが、“新しい”ご計画をお持ちの創造の主、恵みの主、あわれみの主に信頼して共に歩んで行きたいと願います。
◆礎の石(隅の頭)…ところでユダヤ暦の新年は“ローシュ・ハシャナー”(年の頭)と呼ばれ、「第7月の第一日(太陽暦で9-10月)」(レビ記23章24節)です。そして贖罪の日(10日)、仮庵の祭り(15日)と続き、罪の赦しと安息の月です。今日のテキストにある「礎の石」はヘブル語で“ローシュ・ピンナー”で、「隅の頭」です。直訳すると「家を建てる者たちの軽蔑(拒否)した石が、隅の頭になった」となります。聖霊の導きと信じますが、この詩篇118篇22節のテキストを通して「良きサマリヤ人のたとえ」を観てみると、「隅の頭になった=隣人となった」という構図がくっきりと見えてきます。強盗に襲われ瀕死の状態になっているにもかかわらず、宗教家から拒否されたユダヤ人と、正統的ユダヤ人から軽蔑され、ユダヤ人を拒否していたサマリヤ人が出会うことによって、まったく予期せず展開していった前代未聞のまったく新しい隣人となるストーリーです。それは中心から離れたところで展開される分離された関係が結び合わされる和解の物語です。
◆結び…私たちにイエス様は語りかけられます。「あなたの置かれている世界の片隅でこそ、愛が芽生える」と。
Posted on 12/31/2023 at 08:52, by matsumoto
彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に固く立つ。(詩篇112篇9節) /「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。(②コリント9章9節)
◆はじめに…今年2023年の10大ニュースをあげれば①新年早々コロナに罹患②えんじょい退職③壱岐原島へ移住④老健壱岐に就職⑤原島でリモート礼拝開始⑥離島留学生の遺体が原島で発見⑦原島の天使(Мさん)との出会い⑧眞津代牧師肺マック症&高カリウム血症に⑨柳川に移住⑩恵愛園入職、です。年初めに思い描いていた暮らしとはまったく違って、激動の年、主の激しい“恵みの洪水”に翻弄された年でした。新年は、洪水で翻弄された箱舟がアララテにとどまって後、ノアがそこに祭壇を築き、献身のささげ物を主にささげたように、主の遣わされた地で、主の召しに忠実に応えていきたいと思っています。
◆惜しみなく与える…本主日、2023年最後の礼拝のテキストの主題は、「与える」ときの心得と、その「報い」です。誰に与えるのでしょうか? 貧しい人々に、です。なぜ貧しい人々に与えるのでしょうか? 貧しい人々は、お返しをすることが出来ないからです。つまり与えることは「報酬(リターン)」を期待(計画)することなく与えるということです。「与える」ことは取引ではないということです。しかも“惜しみなく(ケチケチせず気前よく)”与えるよう勧められています。「彼(その)の義は永遠にとどまる」とパウロは詩篇を引用して語っていますが、これは彼(私たち)の“施し(慈善)”が「義」の条件となるということではなく、貧しい人々(お返しの出来ない者)に与えたものは失われることはなく、永遠に残るということです。
◆祝福を蒔く…パウロは「与える」ことを「種蒔き」として表現しています。地に投げられた種が再び希望の芽を出し、豊かに実を結ぶ(神を信じ、人を信じて生きる)ことを「永遠の義」と表現しています。「豊かに蒔く者」とあるところの“豊かに”は原語では“祝福”ですから、「祝福を蒔く者」ということになります。私たちは、主から「祝福を蒔く者」として召されています。そして主は、喜んで祝福を蒔く者を愛してくださり、恵みをあふれるばかりに与えてくださる方だと、パウロは確信をもって私たちに語っています。
◆結び…今年2023年も今日で終わります。今年一年、私たちと共に歩んでくださったイエス様に心からの感謝をささげます。そして新しい年2024年も愛と恵みをあふれるばかりに与えてくださる主をあがめます。
Posted on 12/24/2023 at 09:04, by matsumoto
主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇110篇1節) /『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」』と言っているのですか。(マタイ22章44節他)
◆はじめに…本主日アドベント第四主日は「マリヤのキャンドル」です。マリヤが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。マリヤ自身、「ひどくとまどって(…)」(ルカ1章29節)と、心の葛藤を覚えつつ、「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と、御使いのメッセージを受け入れました。ことばを耳で聞いて真の生命を懐妊した、科学の域を超える霊的な事柄です。これは自らのいのちを主に預ける覚悟、信仰による決断です。誰一人信じてくれそうもない出来事を、身体丸ごと受け止めた歴史的事実(真実)なのです。
◆聖霊の交わり…受胎告知の六カ月前に、すでにバプテスマのヨハネを胎に宿した身重のエリサベツを訪ねたマリヤは、エリサベツから励ましと祝福(=預言)のことばを受け、“マグニフィカト”と呼ばれる主への賛歌を歌いました。エリサベツが祝福のことばをマリヤに語ったのは、マリヤの挨拶を聞いた瞬間、ヨハネが胎内で踊り、聖霊に(完全に)満たされてのことでした。一方、マリヤには「聖霊が臨む(到来する)」と御使いが語りました。「聖霊の臨在(到来)」と「聖霊の(完全な)満たし」の出来事が、エリサベツとマリヤの出会いのただ中で起こったのでした。同じように、イエス様が私たちに到来する瞬間、私たちの内なる霊は感動(胎動)し、一瞬で聖霊が充満します。以前、使徒信条第3項「主は聖霊によりて宿り」のヘブル語訳を日本語に訳すと「聖霊によって熱心に捜し求められた」となることをお話しましたが、主が聖霊を遣わして私たちを捜し求め、出会われるお方だということの根拠がこのエリサベツとマリヤの出会いだと言えます。
◆神の右の座におられる主…今、この待降節のとき、復活された主イエス様は、天の父なる神様の右の座におられ、執り成しの祈り(=力強い杖を伸ばす)をし、私たちのために聖霊を遣わして下さっています。ゆえに私たちは夜明け前(朝の胎内)から聖霊の感動(胎動)なる祈り(あるいは賛歌)をもって主に仕える日々を、喜びのうちに送ることができます。
◆結び…今年2023年も残すところ、あと一週間となりました。今年最後の一週間、聖霊様の導きによって隣人と出会い、その出会いを通してイエス様が私たちの内に宿り、聖霊様が自由に働いて豊かに実を結び、天の父があがめられますように。
Posted on 12/10/2023 at 15:09, by matsumoto
これらのもの(天地の被造物)は滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。(詩篇102篇26節) /これらのもの(天地の被造物)は滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。(ヘブル1章11節)
◆はじめに…昨日、恵愛園(障害者支援施設)でクリスマス祝会が開催されました。利用者、スタッフ、関係者含め総勢180人ほどの集いでした。午前10時から正午までの約2時間の祝会でしたが、きっと今年、最も早くイエス様の誕生を祝う会だったのではないでしょうか。嬉しかったのは、利用者のSさんが、私が施設に到着するのを外で待ち構えていて、祈ってくれたことです。その間わずか三分ほどでしょうけれども、Sさんのイエス様に対する愛と、他者に対する気遣いは、どれほど父なる神様の喜びになったことでしょう。そしてその小さな祈りの時が、今後の彼と私の歩みにどれほどの恵みをもたらすか、それは計り知れません。
◆預言者…本主日アドベント第二主日は「預言者」を想起する時です。旧約聖書は39巻の書物で構成されていますが、モーセ五書(5巻)・歴史書(12巻)・詩歌(5巻)、そして預言書(17巻)に分類されますが、預言書は預言者たちに託されたメシア来臨の預言が、イエス様の誕生によって成就したことを象徴しています。アドベントは“到来”とともに“冒険”という意味ですから、大胆に困難(危険)な場所に踏み込むということです。困難な闇の世に、希望と平和と喜び、そして愛を携えてイエス様が来られる、そのメッセージを預言者は伝えると同時に、預言者は再臨のイエス様をも預言しています。
◆復興…今日のテキストの前節は、ネヘミヤ書9章6節と基本同じ内容です。主が天地万物を創造し、生かしておられると。ただそれらは滅びると。しかし、あなた(主)はいつまでもながらえる。ネヘミヤは、そのリーダーシップによって、神殿の周囲を取り巻く城壁、そして民の復興(復活)を導きました。そのきっかけは、エルサレムに先に帰還した親類から、エルサレムの困難な現状を聞いたからです。内外の敵による再建工事の妨害に対してもあきらめることなく工事を遂行し、わずか52日間で城壁の再建を完成させました。
◆とっさの祈り…その原動力は主に対する“とっさの祈り”でした。私たちも、困難な課題に直面します。しばしば困難な壁に突き当たります。自分の力では解決できませんが、主に祈り、主に委ねるとき、門は開きます。主が開けてくださいます。そのために天の父が、独り子イエス様をこの地に遣わしてくださったのです。その真実を私たちは聖霊様によって確信することができます。
◆結び…アドベントの日々、イエス様の御名で祈れる幸いを感謝します。
Posted on 12/03/2023 at 10:58, by matsumoto
メリバ(=争い)のときのように、荒野のマサ(=試み)の日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない(詩篇95篇8節) /荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない(ヘブル3章8節)
◆はじめに…本主日からアドベント(待降節)となりました。とは言っても今年は変化の目まぐるしい年で、今なお状況に翻弄されています。振り落とされないように必死にイエス様にしがみついているような感じです。向こう岸に渡るために舟に乗り込んだ弟子たちが、大嵐で水をかぶり、イエス様に「先生! おぼれて死にそうです!」(ルカ8章24節)と叫ぶ、その弟子の心境です。
◆アブラハム…例年同様、アドベント第一主日は“信仰の父”アブラハムを想起します。「わたしが示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とする。すべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章1-3節)との主の約束を信じ、「モリヤの地に行きなさい(…)イサクをわたしにささげなさい」(同22章2節)との最初の約束を反故にするかのような主の御声に従順に従い、生涯、信仰の歩みをまっとうしました(ヘブル11章8、17節)。アブラハムの信仰にならう者として「この人(あなた)もアブラハムの子なのです」(ルカ19章9節)と、イエス様の方から私たちを訪ね、近づいて来て下さいます。
◆試練、苦難…信仰の成長には、試練が伴います。祝福と苦難は隣り合わせです。逆に言えば、試練のあるところには信仰の成長があり、苦難のあるところには祝福があります。試練と苦難を与えることが天の父の目的ではなく、私たちが、イエス様ご自身が試みに会われ、従順を学び、完全な者とされ、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル5章8-9節)、その救い主イエス様の愛を心底信じる者となることが目的です。
◆心をかたくなにしない…イスラエルの民は(モーセも含め)、荒野での試練の際、心をかたくな(ヘブル語=激しいこと、ギリシャ語=頑固)にしました。「私たちを渇きで死なせるきか! 主は私たちの中におられるのか!」(出エジプト17章3、7節)と。私たちも困難な出来事に直面すると、感情が激しく動揺し、苛立ち、心が頑なになります。そんな私たちを主は愛の眼差しで見つめ、「わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7章37節)「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」(マタイ28章20節)、と穏やかに優しく語りかけ、苛立つ感情、張りつめた精神を柔らかくして下さいます。
◆結び…インマヌエルのイエス様を、静かに拝する待降節となるよう、祈ります。