Posted on 12/17/2017 at 21:04, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『バプテスマのヨハネ』(待降節第3主日)(2017.12.17)

 

この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。(マタイ福音書3章3節)

  • はじめに…待降節第3主日、3本目のキャンドルに火が灯りました。これは「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。バプテスマのヨハネは、救い主なるイエス様を世の人々にいち早く証した、福音宣教の先駆者でした。荒野に住み、いなごと野蜜を食べ、粗末な衣服に身を包んで、“声”として働いていました。
  • 誕生…バプテスマのヨハネは、祭司ザカリヤとエリサベツの子として誕生しました。御使いガブリエルが、神殿で朝夕の香を焚く奉仕をしているザカリヤに「(…)あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。(…)彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意する」(ルカ福音書1章13-17節)と、その誕生と、その働きについて告知しています。
  • エリヤ再来の預言…この聖句は、旧約のマラキ書4章5—6節の引用であり、その預言の成就といえます。あの偉大な預言者エリヤが再来し、神様から離れた民の心を再び結び合わせる、関係を修復するというみことばです。つまり、バプテスマのヨハネが旧約と新約の橋渡し、あるいは要(かなめ)として働くということです。
  • バプテスマのヨハネの働き…“エリヤの霊と力”をもって、具体的にどのような働きをしたでしょうか。ユダヤの荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」(マタイ3章2節)と、人々に今の生活、生き方を根本的、霊的に変えるように、働きかけ、「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方」(同11節)とイエス様が主メシヤ、救い主であることを宣べ伝えました。またヨハネは、「自分はキリストでははない」と言明し、そして自分がエリヤの再来だということも否定しました(ヨハネ1章20、21節)。徹底して自分を低くし(イザヤ書40章3—5節)、その立ち方を貫き通し、貴賤の区別なく、傲慢な生き方をする者に対しては媚びることなく糾弾しました(マタイ14章3、4節)
  • 結び…私たちも、降誕日に向けて、まっすぐに主の道を備えたいと願っています。
Posted on 12/10/2017 at 18:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『まことの預言者』(待降節第2主日)(2017.12.10)

 

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7章14節)

  • はじめに…先主日からイエス様のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。私たちはアドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、アドベントの主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日は2本目で「預言者のキャンドル」です。旧約聖書は39巻の書物で構成されていますが、モーセ五書(5巻)・歴史書(12巻)・詩歌(5巻)、そして預言書(17巻)に分類されます。このうち預言書を記した預言者たちに託されたメシア来臨の預言が、イエス様の誕生によって成就したことを象徴しています。
  • 預言者…まず「預言者」と聞くと、だれを思い浮かべるでしょうか? 預言者エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモス、ミカ…。それぞれ王に対して、そして民衆に対して、歯に衣を着せることなく、主から預かったことばを大胆に語った人たちでした。今、生きている現実の中で、権力を恐れることなく、また情にほだされることなく、主から託されたことばを曲げることなく伝えました。それは時として王にとっても、民衆にとっても耳障りなことばでした。
  • にせ預言者…これらの“まことの預言者”が活動する一方で、“にせ預言者”も起こりました(マタイ24章11節他)。にせ預言者は、一見、真っ当なことを語っているようですが、自分の欲得に従い、心の思いを語っているに過ぎないのです(エレミヤ14章14節)。にせ預言者は自分の国を愛する者であり、国が大きく強く富むことを望む者です。そのように言うと「自分の国を愛して何がいけないの? そういうあなたこそ『売国奴』『非国民』じゃないの」などと、今日でも批判されそうですが、“まことの預言者”たちは率直に神のことばを語ったがゆえに、王や民衆から疎まれ、孤立無援でした。問題なのは、主なる神よりも、国を愛し、富を望むことです。
  • 主を待ち望む者は幸い…私たちは「真」「偽」を見極めることは難しいことです。本当に真実な方だけが、偽物を見極めることができる方です。その方を待ち望む者を、主なる神は恵み、あわれもうとして立ち上がられる、そうイザヤは生きた神のみことばを預言しています(イザヤ30章18節)。そして神の独り子なるイエス様がこの地上に送られました。
  • 結び…インマヌエルなるイエス様を迎える心の扉を開いて過ごす一週間となりますように。
Posted on 12/03/2017 at 17:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『アブラハムより偉大な方』(待降節第1主日)(2017.12.3)

 

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ福音書8章58節)

  • はじめに…本主日からイエス様のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。私たちはアドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、アドベントの主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日はその1本目で「アブラハムのキャンドル」です。主の約束を信じて信仰の歩みを始めた“信仰の父”ゆえに、約束の成就としてのイエス様の誕生へと引き継がれてきたことを想起するキャンドルです。
  • アブラハムの信仰…まず「信仰とは何か?」という問いに対して、もっとも明快に告げているのはヘブル人への手紙11章1節でしょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」。その信仰によってアブラハムは、数多の困難を乗り越えながら人生行路を歩み続けました。(もちろん失敗も)①主のみことばに従って(75歳の後期高齢者で)旅立ちました(創世記12章1-4節)②「全能の神」を(99歳の白寿で)知り、全幅の信頼をもってひれ伏した(同17章1、17節)③ひとり子イサクをモリヤの山で主にささげた(同22章9-13節)のです。このアブラハムが“天の故郷”に想いを向け、また、死者の復活を信じていたことをヘブル人への手紙は伝えています。これこそ信仰の父、信仰の祖と呼ばれるにふさわしい生き様です。
  • アブラハムが生まれる前…このアブラハムの信仰は、アブラハムの父、テラから受け継がれたものではありません。テラはウルからカナンに向けて、アブラハムと一緒に旅立ちましたが、途中のカランに住みついて、そこで一生を終えています(同11章31、32節)。テラは目に見える現実を前にして、その場にとどまりました。しかし、アブラハムは天の都(主の臨在)を望み見て喜び歩みを進めたのです(ヨハネ8章56節)「信仰の創始者であり、完成者」であるイエス様は、アブラハムが生きているとき、さらには生まれる前から存在していたのです。イエス様(みことば)によって世界(万物)は保たれているのです(コロサイ1章15-17節)。私たちはイエス様ご自身である“みことば(の真理)”によって生きる自由を与えられているのです(ヨハネ8章32節)
  • 結び…いのちの光としてこの世に来て下さり、十字架と復活により、罪から解放し、自由と希望に生きる新しい道を拓いて下さるイエス様がおられます。
Posted on 11/26/2017 at 11:42, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『歩み寄って来られるイエス様』(2017.11.26)

 

そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。(ヨハネ福音書10章22-23節)

  • はじめに…時間が過ぎるのはあっという間という感じがするのはわたしが歳を取ったせいでしょうか。とにかく早い。次主日にはアドベント(待降節)に入ります。ちょうどこの時期にユダヤ教では「ハヌカーの祭り(宮きよめの祭り)」が祝われます。過越しの祭りに次ぐ祭日となっているほどです。前168年にシリヤの王アンティオコス4世エピファネスによって汚された神殿をきよめて、神に再奉献した出来事を記念し、前165年にユダス・マッカバイオスによって制定された祭りです。
  • 神? 気違い?…「エピファネス」とは「現人神」という意味です。アンティオコス4世は自分を呼ぶ呼称として「エピファネス」と呼ばせていたようです。その王に対してユダヤ人は「エピマネス」(気違い)と、ことばをもじって陰口をたたいていたそうです。人が神となることは、狂気の沙汰です。しかし神が人となられたイエス様です。狂気とはまったく逆の出来事です。というより、人間に対する愛(アガペー)で狂っているという方が正確かも知れません。しかし、パリサイ人を筆頭に多くのユダヤ人は、イエス様を「悪霊につかれて気が狂っている」(ヨハネ10章20節)と決めつけました。
  • 光の祭典…また、ハヌカーの祭りは別名「光の祭典」とも言われます。最初の晩に一本目のローソクを灯し、二本、三本、そして最後の晩に八本目のローソクをハヌキヤと呼ばれるメノラーに火を灯します。この一年でもっとも闇が深くなる季節に、一晩、一晩、少しずつ光が増していく様は、抑圧されている者、くずおれている者、孤独な者、そして私たちに希望のメッセージを伝えます。
  • 再奉献…私たちは、神の神殿です。主の年2017年の歩みのなかで、知らず知らずのうちに、あるいは意識的に、あるいは止む無く汚れを身に帯びたことでしょう。その汚れと闇のなかに、いのちの光、希望の光として、救い主イエス様が歩み寄って下さり、汚れと闇を追い払い、新たな力を与えて下さいます。
  • 結び…私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ、霊的な礼拝をもって2017年の締めくくりができますように(ローマ12章1節)
Posted on 11/19/2017 at 19:59, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『友によって研がれる』(2017.11.19)

 

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27章17節)

  • はじめに…昨日は、私の青年時代からの友人の結婚式でした。司式の牧師がメッセージの最初にユーモアを交えて「お待たせしました」というのが皆さんの実感では?と語られたように、若いとは言えない年齢でした。式に集まった人たちの多くは「まだか、まだか」と気をもんでいたことと思います。あるいは「まさか!?」と思った方もいたかも知れません。会場となった教会は驚きと喜びとで満ちていました。
  • 顔…出席者の人数は、目測でざっと百人は超えていました。懐かしい顔ぶれが幾人か見られました。その中で「松元さーん」とか、「おお、百年振りのような感じだね。元気だった?」なとど声をかけて近寄って来てくれる友がありました。その様子を観て家内が「感動した」と感慨深げに言いました。それらの友は、私の青年時代の未熟さを知っていつつも、理解し受け入れて笑顔で声をかけてくれたからです。(多くの人が去って行ったにもかからず)
  • 鉄は鉄によって研がれる…今日のみことばは、“友によって研がれる(磨かれる)”ということがテーマですが、先ほどの懐かしい顔の中で、最初に「松元さーん」と声をかけてくれたのは、Sさんご夫妻。Sさんは私が自営業をしていたときの親会社の現場スタッフでした。自動販売機に使用する“電磁ソレノイド”の研磨を担当していました。まさに鉄を鉄で研いでいました。当時Sさんも人生についていろいろ悩み、模索していた訳ですが、私が納品する度にお互い顔を合わせ、話をし、その後、イエス様を救い主として心に迎えたのです(仏教で言うところの“折伏”ということはしておらず、ご自身で決心されました)。私にとって生涯、忘れることのできない貴重な友のうちの一人です。
  • 人は友によって研がれる…「友」と訳されている語は、原語を直訳すると「賛同、支援、励ましを表わす顔」となります。また、羊飼い、牧者を表わす語でもあります。ですから“友”というのは、私たちを“友”と呼んでくださる(ヨハネ15章15節)イエス様の表情、イエス様の振る舞いで他者に接する者ということができます。この友なるイエス様のみこころを受けた表情、振る舞いによって、私たちは互いに磨かれ、鏡のように顔が内側から輝くようになるのです。詩篇34篇5節「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは(光が注がれ、川面がきらめくように)輝いた」
  • 結び…主イエス様の隣人に接する表情と振る舞いによって、互いに励まし、賛意を表し、支援し合い、磨かれて内側から輝く一週間であるよう、祈ります。
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