Posted on 02/04/2018 at 15:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『イエス・キリストの系図』(イエス・キリストの生涯 その5)(2018.2.4)

 

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図◆アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、◆ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ(…)◆ サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、◆エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、(…)◆ ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。(マタイ福音書1章1-16節)

  • はじめに…のぞみ号で名古屋から東京へ出かける場合、停車駅は? (新横浜、品川、東京)東海道線で各駅停車だと? (尾頭橋、金山、熱田…87駅)
  • マタイのプロローグ…マタイは、信仰の父(ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教にとって共通の)アブラハムから系図を書き起こし、イエス様へと繋いでいます。ただ、日本人、特に聖書を初めて開き、読もうとする者にとっては、一気に読む気力が萎えてしまう(すでに萎えてしまった?)かも知れません。しかし、ユダヤ人にとっての“つかみ”としては非常にインパクトがあることでしょう。なぜなら、アブラハム、そしてダビデは、ユダヤ人にとってのアイデンティティそのものだからです。マタイはユダヤ人読者を想定してこの福音書を書いているのです。1章1節はのぞみ号、2節以下は鈍行列車の旅で東京へ、と言ったところでしょうか。
  • ルカによる系図…一方、ルカは、異邦人(一般)読者を想定して、イエス様から順次、過去へ遡り、最終的には人類の始祖アダムに至ります。名古屋から途中、私鉄に乗って、東京も過ぎて、日本最北端の稚内駅まで行くと言ったところでしょうか。
  • 途中下車…通常ユダヤ人の系図には女性は含まないのですが、マタイには、4人の女性の名が記されています(マリヤを含めれば5人)。これはマタイの、ユダヤ人たちの極端な選民意識(差別意識)に対してのプロテストでしょう。イエス様が罪のレッテルを貼られた者や、汚れを身に負った者を排除することなく、近づき、共に歩まれた、その刻印を記したのでしょう。ルカも同様です。マリヤの系譜をたどり、罪、誤りを犯してしまう人間の源のアダムまで遡り、そのことを承知で、愛し、赦し、新しい力を与えられるイエス様を証ししているのです。
  • 結び…旧約と新約を貫いて、みことばなるイエス様が私たちの内側に、いきいきと働いて下さることを感謝します。
Posted on 02/04/2018 at 15:21, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『受肉(人となったキリスト)』(イエス・キリストの生涯 その4)(2018.1.28)

 

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた◆ ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」◆ 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである◆ というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである◆ いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ福音書1章14-18節)

  • はじめに…最近、わが家ではなぜか映画(DVD)ブームで、先週も『トイレット』(監督・荻上直子)を観ました。ブームのはじまりは『テルマエ・ロマエ(ローマ公衆浴場)』。そして今回はトイレ。お風呂もトイレも人の暮らしに密接に関わるものです。生活の質を支える二本柱と言っても良いでしょう。
  • ことば(ロゴス)の2重の性質…ヨハネ福音書1章1節で「初めに、ことばがあった」と記され、世界(宇宙)の創造以前に、すでに“ことば”が存在していたことが記されています。そして14節では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記されています。1節は“ことば”の先在(永遠性・神性)の真理が明らかにされ、14節では“ことば”の受肉(歴史性・人間性)の真実が明らかにされています。これは神が人に変化した、ということではなく、神性に、完全な人間性が付け加えられた(着せられた)ということです。
  • 住まわれた…そしてその“ことば”が「住まわれた」、そう続けられています。この「住まわれた」というのは、「幕屋を張られた」という意味です。ヘブル語の“シャカイナ”(臨在)と関連することばです。イスラエルの民は、エジプトを出て、荒野を旅しました。そのとき、宿営の中央に幕屋を置き、そこに主が臨在しました。同様に、私たちの歩む人生の荒野のなかに主イエス様が幕屋を着て、臨在されたのです。
  • 恵みの上にさらに恵み…ことばが人となった“受肉”のできごとは、とてつもなく偉大な、いまだかつて人類が一度も経験したことのない出来事なのです。そのことを新改訳では「恵みの上にさらに恵み」と訳しています。原語のギリシア語は“恵みに反して(アンチ)恵み”と表現しています。
  • 結び…イエス様が共におられる恵みを日々実感しながら歩める幸いを感謝します。
Posted on 01/21/2018 at 19:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『証し人ヨハネ(バプテスマのヨハネ)』(イエス・キリストの生涯 その3)(2018.1.21)

 

神から遣わされたヨハネという人が現われた◆(…)彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである◆すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた◆この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった◆ この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった◆しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権(力)をお与えになった◆この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ福音書1章6-13節)

  • はじめに…先週は『プール』という映画を観ました。周囲のことには頓着せず“わが道を行く”というように人生を送る母に対して、「もう少し自分の気持ちを理解してほしいのに…」という、もどかしい思いを抱いている娘が、タイのゲストハウスで働いている母のもとへ行き、そこで一緒に働いている人たちとの交流を通じて、気持ちがほぐれていく、そんなストーリー。その中で願い事を思いつつ飛ばす“コムローイ(紙と竹で作る熱気球)”が印象的でした。
  • バプテスマのヨハネ…「最後はどうなるの」と尋ねるさよに、菊子は「空高く上がって、最後は燃え尽きてなくなる」と答え、ビーは「魂みたいだね」と。このコムローイ(天灯)。タイだけでなく、東欧や中国にもあって、ポーランドではバプテスマのヨハネの誕生を祝う日(6月24日)に飛ばします(2014年以降は中止されている)。バプテスマのヨハネは言いました。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3章30節)。
  • 証し人ヨハネ…さて、「あかしのために来た」(ヨハネ1章7節)とバプテスマのヨハネの使命が記されています。「あかし」とは原語で“殉教”を意味することばです。自我に死ぬこと、すなわち自分は「~ではない」と宣言することです。そして真実を指し示すことです。
  • まことの光(True Light)…その真実とは“まことの光”です。“まこと”とは、本物・偽物という知的な理解のことではなく、信じきることができる、いのちを丸ごと委ねることができるという人格的なことです。すべての闇を照らす、いのちの光なる、活ける主イエス様です。
  • 神の子となる力…このイエス様を信じる決断をして、いのちの躍動を身体で感じること、これが神の子の“力”です。
  • 結び…新しい週、イエス様のいのちの躍動を身体いっぱいに感じながら歩む日々でありますように。
Posted on 01/14/2018 at 15:42, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ヨハネの序文』(イエス・キリストの生涯 その2)(2018.1.15)

 

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。◆この方は、初めに神とともにおられた◆すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない◆この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった◆光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ福音書1章1-5節)

  • はじめに…ルカ福音書は3章でイエス様の系図(歴史)を人類の始祖アダムまで遡って記し、マタイ福音書は、信仰の祖アブラハムにまで遡り、マルコはイエス様の系図を省略し、バプテスマのヨハネの活動から記しています。それら共観福音書とは趣きを異にするようにヨハネ福音書は、天地創造以前にまで遡って記しています。「初めに、ことばがあった」(ヨハネ福音書1章1節)
  • 初めに…開口一番“初めに”(ベレシート=ヘブル語、アルケー=ギリシア語)との響きを聞いた者は、感電したような、雷に打たれたような衝撃を感じるのではないでしょうか? 特にこの福音書が書かれた当時のユダヤ人にとっては、なおさらのことだったでしょう。なぜならヨハネ福音書の冒頭が、創世記の冒頭を否応なしに意識せざるを得ないからです。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)
  • 天地開闢のストーリー…中国、日本、あるいはアイヌの天地開闢(てんちかいびゃく)を物語る神話では、初めにあるものは混沌(カオス)で、それが変化していく過程で神が生まれるという構成になっています。混沌が先で神が後です。しかし聖書の語る神は、混沌以前に存在し、天地を創造される神です。しかもヨハネ福音書は、“ことば”が天地創造以前の存在の根源だと語るのです。
  • ことば…“ことば”は、ギリシア語=ロゴス、ヘブル語=ダーバール、アラム語=メムラです。この“ことば”が人となったのがイエス・キリストです。
  • ともに…つまり、この“ことば”なるイエス・キリストが、天地創造の前から、神と“ともに”おられたと、ヨハネは証言するのです。それは単に神と並んで存在するということではなく、神に向かって神との不断の親密な愛の交わりにおいて共存しているということです。また、このことは“ことば”が、神の性質や活動の一部ではなく、別個の位格(ペルソナ)であることを示しています。すなわ無限の始めより神との間に愛の交わりにおいて存在されていたのです。
  • 結び…父なる神と天地創造の前から親密な愛の関係にあった、みことばなるイエス様が、永遠の愛の関係を私たちと築いて下さっていることを確信して日々歩める幸いを感謝します。
Posted on 01/09/2018 at 08:14, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ルカによる献呈の辞』(イエス・キリストの生涯 その1)(2018.1.7)

 

私たちの間ですでに確信されている出来事については、(多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、)◆初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、◆私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿◆それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。(ルカ福音書1章1-4節)

  • はじめに…先週は数本の映画をDVDで観ました。その中のひとつは、古代ローマ帝国の浴場設計師ルシウスが現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化を学んでいく、コメディタッチの映画『テルマエ・ロマエ』。
  • 世界の首都ローマ…聖書とローマ、あるいはイエス・キリストとローマ、キリスト教とローマは、密接な関係があります。特に新約聖書の書かれた時代は、ローマが世界の中心といえるほど勢力を拡大していました。その中でユダヤ地方はローマからしたら辺境の地の属国だった訳です。そのローマの高官だったと考えられているテオピロ(「「神の友」の意)に、ルカはその著作『ルカによる福音書』を献呈したのです。そして明らかに、その著作を通してローマ世界に福音(イエス・キリスト)の歴史的事実・真実が流布されることを意図していました(たとえテオピロの手元にその福音書がとどまったとしても、ルカの愛が値引きされることはまったくなかったことでしょう。愛は計量されることはないのです)。
  • 信仰者ルカ…ルカは医者であり、歴史家(著述家)であり、また画家であったという伝承もあり、相当な文化人であったことが伺えます。しかし、何よりも福音によって信仰者として生きた人だったと言えます。ルカ福音書には社会から疎外されていた人々に対する温かいイエス様のことばと行いが他の福音書よりも多く記されています(ルカ特殊資料)。またローマの獄中でパウロが書いた書簡には「ルカだけは私とともにいます」(Ⅱテモテ4章11節)と、他の者が見捨ててパウロのもとを去って行ったにもかかわらず、ルカは獄中のパウロに寄り添い続けたのです。これはまさに十字架に掛かられつつ、ともに十字架につけられたひとりの犯罪人に対して「わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23章43節)と宣言したイエス様の生き様、死に様に倣った振る舞いと言えます。
  • 結び…新しい週、イエス様の生き様が、自らの振る舞いに映し出されるように、あたかも素晴らしい映画を映し出す銀幕(スクリーン)になりますように。
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