Posted on 10/07/2018 at 01:39, by matsumoto
イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。(ルカによる福音書4章39節)
- はじめに…ナザレの会堂で「捕らわれ人には解放を告げるために遣わされた」と語られたイエス様は、ナザレからカペナウムに行かれ、会堂に入り汚れた霊につかれた人を、その悪霊から解放されました。いずれも安息日の出来事です。その後、ペテロの家に入り、ペテロのしゅうとめめの病をいやされました。私たちも様々な物や事に縛られています。イエス様はそのような捕らわれから解放するために降って来られました。解放は安息、ひと息つく憩いの出来事です。
- 安息日の出来事…カペナウムの会堂からシモンの家は見えているほど近いところにあります。大人の歩幅で50歩ほどです。会堂を出てシモンの家に行かれたイエス様は、ひどい熱で苦しんでいるシモンのしゅうとめに歩み寄り、熱をしかりつけられました。すると彼女はすぐに立ち上がり、働き始めました。それを見ていたシモンや他の人々の驚きと喜びは、どれほどだったでしょう。
- 夕暮れ時の出来事…日が暮れるということは、この日、安息日が終わったことを意味します。ユダヤでは夕方から新しい一日が始まるからです。これは「夕があり朝があった」(創世記1章5、8、13節他)という天地創造の過程に由来しています。そして神が御業を終え、休まれた日を安息日として定められました。このことからイエス様の行為は律法違反ではありません。束縛の中にいる人々に対して放っておかれず、ひとりひとりを大切にされました。それは本来の安息日の意味の回復であり解放です。死ではなくいのちを与えようとされる主の愛の姿です。私たちを取り囲む様々な束縛から私たちを解放し、生きる者として下さいます。
- 結び…「すべて疲れた人(束縛されている人)、重荷(規則や人の作ったきまり)を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(安息、ひと息つかせて)あげます」(マタイ11章28節)主の祝福を祈ります。
Posted on 09/23/2018 at 20:58, by matsumoto
イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。(ルカによる福音書4章35節)
- はじめに…明日24日の日没からユダヤ3大祭りのひとつ“仮庵の祭(スコット)”が始まります。ちょうど美しい満月が闇夜を照らす“中秋の名月”のときです。現在のイスラエルでは庭やベランダに簡易な小屋(スカー)を作って、お祝いをします。
- 会堂で教えられる主イエス様…先週のテキストでは、イエス様が郷里ナザレにある会堂で預言書イザヤ61章を朗読され、その後、奨励のメッセージ(異邦人の救い)をされ、会衆の怒りを買い、崖から突き落とされそうになった出来事でした(ルカ福音書4章16-30節)。今日のテキストはその後、カペナウムに下り、そこの会堂での出来事(悪霊からの解放)です。イエス様の“ことばに権威があり”人々は驚いたとルカは記しています(同32、36節)。ナザレの人々はイエス様のメシヤ性(権威の源)に対して霊の耳が閉ざされていましたが、今日のカペナウムの会堂において、汚れた霊(悪霊)はイエス様のメシヤ性を知っており、滅ぼされるのではないかと、恐れを抱いていました(同34節)。
- 悪霊と全能の神…悪霊は自らが“滅ぼす”ことを使命としているゆえに、自らが滅ぼされることに対して非常な恐れを持っています。ゆえに自己保身のために、あらゆる手段を講じます。相手を滅ぼすことのみならず、貶(おとし)めたり、ことば巧みに騙したり、同情を買うように振る舞ったり、あるいは、あたかも全能者であるかのように自らの力を誇示したり…。悪霊はヘブル語で「שֵׁד(シェド)」。創造主なる神の呼び名に「エル・シャダイ」(全能者なる主)という名がありますが、この「全能者」はヘブル語で「שׁדּי(シャダイ)」。つまり悪霊は、全能なる主に限りなく近い存在に見えるけれども、ただ一点、“י(ヨッド)”が欠けていることで、全能とはまったく程遠い存在なのです(マタイ5章18節参照)。私たちも悪霊の攻めに遭うことがあるでしょうけれど、全能なる主イエス様の愛によって害されることはないのです。
- 結び…主イエス様は、この仮庵の祭のとき、私たちをみことばの権威によって守り、祝福し、恵み豊かに活かしてくださるお方です(ローマ8章31-39節参照)。
Posted on 09/16/2018 at 13:10, by matsumoto
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。(ルカによる福音書4章22節)
- はじめに…ユダヤからサマリヤを通ってガリラヤへ行かれたイエス様。そこで大歓迎を受け郷里のナザレへ。人々は歓迎したものの、一変し、拒否してしまいました。
- 聖書のことばが実現…イエス様は安息日に会堂でイザヤ書61章1-2(前半)節を朗読され、「今、耳にしたとおり、このことばが実現した」と言われました※。このみことばはメシア預言です。これを聞いた人々は、自分たちをローマの圧政から救い出してくれる方だと思う一方で、「あれはヨセフの子ではないか」とささやく人もいました。
- イスラエルの民から異邦人へ…イエス様はエリヤやエリシャについて語られます。イスラエルにききんが起こった時、エリヤは異邦人のやもめのところに遣わされました。またエリシャによってイスラエルにいる重い皮膚病の人ではなくシリヤの皮膚病の人だけがきよめられたこと。これは神がイスラエルではなく異邦人を祝福されているということです。これを聞いたナザレの人々は怒り、イエス様を崖から突き落とそうとしました。この出来事はイスラエルの民の心を表わしています。「この方はご自分の国に来たのに民は受け入れなかった」(ヨハネ1章11節)
- 父なる神の涙…「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子とされる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。アダムとエバは罪を犯したため、エデンの園を追放されました。父なる神は、この事以来、痛みをもって人々がご自分のもとへ帰って来ることを忍耐をもって待っておられます。そして、ひとり子イエス様を世に遣わされ、十字架の死によって和解の愛を表わされ、また帰る道を示されました(ヨハネ14章6節)。しかしユダヤの人々はイエス様を拒否しました。父なる神の涙は溢れ流れ大河となっています。
- 結び…ユダヤ人にも異邦人である私たちにも、父なる神は「帰っておいで」と声をかけて下さいます。滅びではなく、いのちを与えるために痛みと涙をもって(申命記30章19-20節参照)。
※ユダヤ教の会堂で朗読される聖書の箇所は1年を通して決まっています。トーラー(モーセ五書)の最初の巻である創世記から順に読み進められ、仮庵の祭の後のシムハット・トーラー(トーラーの喜び)の日に最後の巻の申命記が読まれ、再び創世記に戻ります。また、トーラーとともに関連する預言書(ハフタラー)も一緒に朗読されました。
昨日の安息日(15日)のユダヤ会堂の聖書日課は、トーラーは申命記31章、ハフタラーはホセア14章2-10節(新改訳聖書では9節まで)、ヨエル2章15-27節(またはミカ7章18-20節)でした。
今日の聖書のテキストで、イエス様が朗読されたハフタラーは、イザヤ61章(イザヤ61章10節-63章9節)ですが、この箇所が朗読されるのは、ロシュ・ハシャナ、つまりユダヤの新年の直前の安息日に読まれることになっています。ちなみに、このときのトーラーの朗読箇所は、申命記29章10節-30章20節です。
Posted on 09/09/2018 at 19:28, by matsumoto
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。(ヨハネによる福音書4章46-47節)
- はじめに…明日10日、ユダヤ暦の新年「ローシュ・ハシャナー」になります。世界の創造の日から数えて5779年目になります。そして「ヨム・キプール(大贖罪日)」(19日)、「スコット(仮庵の祭)」(24-25日)と続きます。新年を祝って、お互いに「シャナー・トバー」(日本語で“良い年であるように”)「あなたの名が命の書に刻まれるように」と挨拶を交わします。
- しるしと不思議…今日のテキストは、「王室の役人の子のいやし」というタイトルで知られているところです。次章のはじめに「その後、ユダヤ人の祭りがあって…」と記されてある祭りは、仮庵の祭の可能性が高いですから、今日のテキストの出来事は、ちょうどユダヤ暦の新年に近い頃だったのでは?と思います。さて、ヨハネは、この出来事を“第二のしるし”(ヨハネ4章54節)と呼んでいます。では第一のしるしは? 水をぶどう酒にされた“カナの婚礼”の出来事です(ヨハネ2章1-11節)。いやしと奇蹟、つまりしるしと不思議の出来事です。イエス様は、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)と、子のいやしを必死に願う役人に語られました。
- 一人息子のために…「息子」と記してあるところは原語では“ホ・ヒュイオス”と記してあることから大切な“一人息子”だということが分かります。その大切な息子が瀕死の状態だったのですから、のっぴきならない状況です。必死の思いでカペナウムからカナまでの約30キロの道のりを、しかも上り坂を延々と歩いて来たのです。
- 懇願する役人に…そして、なりふり構わずイエス様に「下って来てください」(ヨハネ4章49節)と懇願しました。イエス様の力に頼ったのです。その願いに対してイエス様は「帰って行きなさい。息子は直っています」(同50節)。直訳は「行け! 子は生きる!」(筆者私訳)
- 結び…私たちの考える方法ではなく、万物を創造し、支えておられる主イエス様のことばを信じて一歩を歩み出す皆さんでありますように。
Posted on 08/26/2018 at 21:02, by matsumoto
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――(ヨハネによる福音書4章9節)
- はじめに…福祉あるいは介護をライフワークにしている者にとって、他者とどのように接するのか(あるいは接して欲しいのか)、ということは極めて重要な事柄です。その最も基本になるものが『バイステックの7原則』と言われるものです。バイステックは、他者がどのようなニーズを持っているのかを7つに分け、それぞれのニードに対する対応のあり方を提示しています。バイステックはロヨラ大学の教授であると同時にイエズス会の司祭でもあったので、7つの原則の着想の多くの部分は、聖書の記述、それもイエス様と人々との対話や態度、行動にあったことは想像に難くないでしょう。
- もっとも安易な振る舞い…ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった。――と、今日のテキストの箇所には記されています。ユダヤ人はサマリヤ人を避けていた訳です。これはイスラエル王国が南北に分裂(BC922)した後、北イスラエル王国にアッシリヤが侵入(BC734)、混血の民となり、サマリヤ人と呼ばれるようになり、純血を是とするユダヤ人(南ユダ王国)は、サマリヤ人を疎んじ、避けるようになったのです。その関係がイエス様の時代まで連綿と続いて来たのです。
- イエス様の振る舞い…サマリヤ人とは口も利きたくないし、見たくもない、近くに寄りたくもない…。それがユダヤ人には当たり前だったときにイエス様は、サマリヤ人の婦人と接触しました。それは当時の常識を破るものでした。①公共の場で男性から女性に話しかけ、②しかもユダヤ人がサマリヤ人に話しかけ、③対価を払わずに水(必要なもの)を求めることは、非常識極まりないことでした。イエス様はこの世の常識ではなく、真実の生き方を示されたのです。
- 結び…イエス様は、分け隔てすることなく、私たち一人ひとりと向き合い、対話し、親しく交わって下さいます。①私たちを一人の人間として接し、②肯定的な感情も否定的な感情もそのまま受け止め、③弱さを包み、④共感し、⑤裁かず、⑥決断を任せ、⑦秘密を守って下さいます。
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