Posted on 12/13/2018 at 20:45, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『力ある神のささやき』(第2アドベント)(2018.12.9)

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」(Ⅰ列王記19章12-13節)

  • はじめに…2018年のアドベントの第2週を迎えました。メシア・イエス様のご誕生を感謝と喜びをもって祝いつつ、アドベント・キャンドルに1本ずつ火を灯していきます。そして再び来られるその時を待ち望みます。今日の2本目のキャンドルは「預言者のキャンドル」です。また今日は“ユダヤ人のクリスマス”とも呼ばれているハヌカー7日目になります(最終は8日目)。
  • 預言者エリヤ…メシア来臨の預言を告げる預言者としてはイザヤ、エレミヤの他、ミカを取り上げることが多いのですが、今日はそれらの預言者の活躍した時期をさらに遡って、紀元前9世紀に北イスラエルに現われた預言者エリヤです。「カルメル山での戦い」が最も有名です。アハブ王の治世、フェニキアの偶像バアルを崇拝する450人の預言者との対決です。主なる神対バアル、二者択一の戦いです。エリヤは主なる神への信仰を回復するために、生命を賭して戦ったのです。
  • 挫折のなかで…バアルの預言者との戦いには勝利したものの、アハブ王の妻、王妃イゼベルの憎しみを買い、命を付け狙われ、その場から逃れます。この大きな挫折のなかで、自らの死をも願いましたが、ひとりの御使いによって力を得、モーセが主と遭い、十戒を授けられたホレブの山へひとり退き、祈りました。追い詰められた思いを主に向けて訴えました。きっと偉大なモーセの出来事と同じように雷が鳴り響き、山が震え、火の中に主が現れることを期待したことでしょう(出エジプト19章16-19節)。実際、同じように地震が起こり、燃え立つ火が現われましたが、そこに主はおられませんでした。
  • 主のささやき…主はエリヤの期待していたように劇的に現われることはありませんでした。むしろエリヤの期待を裏切るように主は、かすかな細い声、ささやきをもって語られました。その主のささやきが、恐怖で嵐のように騒ぎ、同時に怒りで打ち震えるエリヤの心と体を静め、これからの歴史の成り行きと、使命を示されたのです。アドベント。それは信仰のアドベンチャー(冒険)。
  • 結び…今週一週間、静かにイエス様の降誕の出来事を想い起しながら過ごすアドベントの時となるよう祈ります。
Posted on 12/02/2018 at 20:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『すべての人を祝福する―真実と確信』(第1アドベント)(2018.12.2)

 

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)

  • はじめに…2018年のアドベントを迎えました。メシア・イエス様のご誕生を感謝と喜びをもって祝いつつ、アドベント・キャンドル(4本)に1本ずつ火を灯していきます。そして再び来られるその時を待ち望みます。今日のキャンドルは「アブラハムのキャンドル」です。
  • アブラハム…創世記12~25章にアブラハムの生涯が記されています。彼の父はテラ、ノアの息子セムの子孫です。偶像の町ウルに住んでいた時、「そこを出て、カナンに行きなさい」という主のことばを聞きます。それ以後、アブラハムは自分の弱さを露呈しながらも、主のことばに従いました。主はそのような彼を「よし(=義)」とされました(創世記15章6節)
  • アブラハムに語られる主…「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12章1-3節)、「子孫を与える」(同15章1-5節)、「土地を与える」(同7節)、「永遠の契約をする」(同16章1-8節)と主は語られました。「あなたから王が出る」(創世記17章6節)という約束は、マタイ福音書1章1-7節によって実現したことが証明されました。イエス様もアブラハムの子孫として列挙され「ユダヤ人の王」として十字架に架けられました。
  • 主のことばを体験する…主が語られたことばが実現する、という体験をしたアブラハム。彼は主への畏れと信頼を重ねていきます。そのような中で突然「イサクをささげなさい」という主のことば(創世記22章1-2節)。アブラハムの苦悩と漆黒の闇の中、彼は、約束どおり“子を与えて下さった”真実な主を仰ぎ見ます。彼の心に迫ったのは「主に不可能なことがあろうか」(同18章14節)ということばだったのではないでしょうか。事実、主はイサクの代わりに雄羊を備えておられました。これはイエス様の十字架の“型”です。父なる神は、アブラハムの生き様を通して「すべての人を祝福する」ということばが真実であることを示されました。そしてイエス様の降誕、十字架、復活によって確信を与えて下さいました。
  • 結び…祝福する、と語られる主のことばは、メシア・イエス様の降誕によって実現しました。今も私たちに語りかけて下さる主のおことばを聞きながら過ごすアドベントの時となりますように。
Posted on 11/25/2018 at 18:38, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『手を伸ばしなさい』(イエス・キリストの生涯 その45)(2018.11.25)

 

(…)イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイによる福音書12章13-14節)

  • はじめに…日本における障がい者福祉の基本に「障がい者基本法」があります。その目的には「すべての国民が、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するための施策の基本原則と施策事項を定め推進する」と記されてあります。その基本的理念としてノーマライゼーション(地域で普通に暮らす)とかソーシャル・インクルージョン(地域に包み込まれて暮らす)という考え方があります。
  • 穴に落ちた羊…今日の聖書のテキストも、引き続き安息日におけるパリサイ人とイエス様の論争に関することです。イエス様が会堂に入られると、片手のなえた人がいました。一見すると、健常者も障がいのある人も一緒にいる寛容で温かな空間のようにも受け取れますが、実際はどうだったのでしょうか? パリサイ人たちがイエス様にすぐさま質問をしているところからすると、無理矢理会堂の中に連れ込まれていたのかも知れません。片手のなえた人にとっては穴に落ちた羊の状態だったのではないでしょうか(詩篇88篇6節参照)「安息日にいやすことは正しい(許される)ことですか」(マタイ12章10節)
  • 引き上げられる主…当時、生命の危機に直面していない場合、安息日にいやすことは禁じられていました。つまり、片手のなえた状態は、日常的な状態だったので、生命に関わることではない、そうパリサイ人たちは解釈しており、イエス様が律法違反をしていやしを行うか、策略を立てて質問をしています。イエス様は、その問いに対して問い返されます。「羊が安息日に穴に落ちたら、引き上げてやりませんか。人間は羊より、はるかに値うちがある」(同11節)。そしてイエス様は、片手のなえた人に「手を伸ばしなさい」(同13節)とみことばを語られました。
  • 突き落とすパリサイ人…パリサイ人たちは、いやしを行われたイエス様の前に跪くことなく、喜ぶことなく、会堂の外に出て、「どうやって滅ぼそうか(深い淵突き落とそうか)」(同14節)と相談をはじめたのでした。イエス様は、この片手のなえた人のいやしによって十字架の道が決定的になったのです。そしてもっとも深い黄泉にまで降られ救いの道を拓かれたのです。
  • 結び…すでに主の御手に包まれているのです。ジーザス・インクルージョン、イエス様に包まれて過ごす一週間でありますように。
Posted on 11/18/2018 at 20:49, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『解放と喜びの日』(イエス・キリストの生涯 その44)(2018.11.18)

 

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(…)しかし、イエスは言われた。「人の子は安息日の主です。」(マタイによる福音書12章1-8節)

  • はじめに…弟子たちが麦の穂を摘んで食べているところを目撃したパリサイ人たちは、イエス様に抗議します。「隣人の畑のぶどうや麦の穂は、思う存分食べて良い」(申命記23章24-25節)という規定あります。しかし問題は、“安息日にしてはならないことをした”ということです。空腹を満たす、それはいのちに関わることです。いのちよりも安息日の規定を守ろうとしたパリサイ人たち。彼らにとって安息日とは、どういうものなのでしょうか。
  • 2つの安息日…創世記2章1-3節、主は創造の業を終えられ、休息されました。七日目、この日は主の安息です。出エジプト記16章30節、主はイスラエルの民をエジプトから救い出し解放して下さいました。これにより民は休息を得ました。民の安息です。出エジプト記20章8-11節、主は安息日を祝福され、聖なるものと宣言されました。出エジプト以降、イスラエルの民にとって安息日とはエジプトからの解放を覚え(記念し)、主に向かう大切な日となりました。縛りからの解放を覚える日、民はいつしか人々を縛るようになっていました。イエス様は「まず神の国とその義とを求めなさい」(マタイ6章33節参照)と言われます。
  • 永遠の安息の約束…出エジプト記31章16節「代々にわたり、この安息を守らなければならない」、またレビ記3章17節「代々守るべき永遠のおきてであると主は人々に語られました。果たして人間に守ることができるでしょうか? これはイエス様の十字架の影として語られたものです。ヘブル9章8-12節、イエス・キリストがただ一度ご自分をささげ(いけにえとしての十字架)られ、永遠の贖いをされました。そしてやがて来る千年王国で永遠の安息が成し遂げられると聖書は語っています。
  • 結び…解放(自由)と喜びと休息の一週間となりますように。

 

Posted on 11/11/2018 at 16:25, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『愛は律法を超える(Love is above the law)』(イエス・キリストの生涯 その43)(2018.11.11)

 

このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネによる福音書5章16-17節)

  • はじめに…2016年1月にイスラエル巡礼旅行に行った際、ビア・ドロローサ(苦しみの道)を歩きました。そのスタート地点に「羊の門」、そして「ベテスダ」がありました。そこで現地ガイドの榊原さん(通称バラさん)が、今日のテキストのヨハネ5章を朗読し、概要を解説してくれたことを昨日のように思い出します。
  • ベテスダ(あわれみの家)…“ベテスダ”はヘブル語で、ベイト(家)とヘセド(あわれみ)が合わさって「あわれみの家」という意味である可能性が大です。そこに医者から見離された人たちが大勢、集まっていたのです。5章4節が欠落していますが、そこには「主の使いが降りて来て、水を動かし、その直後に最初に池に入った者は、どんな病気でもいやされた」という言い伝えが引用されていました。この言い伝えを信じて、当時の医学では手立てのなかった人々が集まって来たのです。そこに38年(申命記2章14節参照)の長きにわたって病んでいた人がいたのです。イエス様は、その人を見つめ、憐れみの心でその生い立ちをすべて自分のこととして包み込み(霊的・人格的に交わり)、ことばを掛けられました。
  • 愛のことば…「あなたは健康に生まれたかったでしょう」(ヨハネ5章6節b/筆者私訳)。医者に見離され、思うように身体は動かず、ベテスダの池に入ることもできない。心も萎え、力なく絶望状態のところに、イエス様のまなざしとことばが響いて来たのです。このイエス様の憐れみと愛に満ちたことばによって、砂漠のような心の奥底から、いのちの泉が滲み出てきたことでしょう。その僅かな希望をイエス様は後押しします。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(同7節)。それは安息日には禁じられていた行為でした。しかし、愛と憐れみの主のことば(福音)は、安息日の縛りを突破します。
  • 結び…主の愛は、律法を超えて働きます。私たちが弱い時にこそ、主の力は強く働きます。主は、天地万物を創り、今も万物を支えておられる創造主であり、安息日の主です。
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