Posted on 12/13/2020 at 17:32, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『使徒信条(その2)~待降節第三主日』(イエス・キリストの生涯 その138)(2020.12.14)

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。(ヨハネ福音書1章29-34節参照)

  • はじめに…私たちはアドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、アドベントの主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日はその3本目で「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。バプテスマのヨハネは、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しました。荒野で悔い改めのバプテスマを授け、多くの弟子を持っていたヨハネは、自己アピールではなく、主イエス様を指し示し、主の顕れを人々に備えることに徹していました。「キリストではない」「エリヤでもない」(ヨハネ1章20、21節)と、徹底して自己否認して、脇役に徹しました。「主の道をまっすぐにせよ」と。
  • 子なる神…アドベントに入ってから使徒信条のメッセージをしていますが、本日は第2項「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」です。古ローマ信条も同じです。まず私たちは「神」を信じる者です(第1項)。その「神」を “父”である方、すなわち人格(=愛)を持たれた方だと、告白します。しかし限界がなく超越された方であるゆえ、有限である私たちにはその全貌を見ることも理解することもできません。にもかかわらず、私たちが“父なる神”を信じられるは、父の“ほとばしり出る”愛によって、父と一体なる無限なる方が“身を乗り出して”有限なる者としてこの困難な地上に、肉をとって来られたゆえです。その方が父なる神の独り子、主イエス・キリストです。
  • 証し、戸惑い、躓き…その神の独り子、主イエス・キリストを世に伝えたのが、バプテスマのヨハネです。「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「この方が神の子」(ヨハネ1章27、29、34節) と証ししました。その後、バプテスマのヨハネの弟子たちがイエス様に同行し、イエス様の証し人となっていきました。証し人はイエス様との関わりを通して徐々に成長していきます。最初から完全な証し人はいません。また成長の過程で戸惑い、躓きを体験します。ナタナエルしかり(同46、49節)、バプテスマのヨハネしかり(マタイ11章3、6節)、ペテロしかり(マタイ26章33節)、そして私たちしかりです。しかしそのような私たち一人ひとりをイエス様は十二分にご存じで、その上で愛で包んでくださったし、包んでくださっています。
  • 結び…天の御国はバプテスマのヨハネとイエス様にはじまり、私たちのところへ日々到来しつつある事実です。バプテスマのヨハネが証しし、苦難と十字架、復活と昇天、そして再臨を通して私たちに惜しみなく愛を注いでくださっている神の独り子なる主イエス様に栄光がありますように。

《追記》

zoom参加を希望される方は10時15分-25分の間に

ミーティングID: 619 286 4474

パスコード: 3D3M69

でアクセスしてください。

※注意事項

①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除をします)

②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります

Posted on 12/06/2020 at 17:48, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『使徒信条(その1)~待降節第二主日』(イエス・キリストの生涯 その137)(2020.12.6)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず(マラキ2章10節参照)

  • はじめに…私たちはアドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、アドベントの主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日はその2本目で「預言者のキャンドル」です。旧約聖書は39巻の書物で構成されていますが、モーセ五書(5巻)・歴史書(12巻)・詩歌(5巻)、そして預言書(17巻)に分類されます。このうち預言書を記した預言者たちに託されたメシア来臨の預言が、イエス様の誕生によって成就したことを象徴しています。まさにアドベントとは“到来”という意味ですから、アドベントの本質と言えるでしょう。また、同じ語源でアドベンチャー、すなわち“冒険”という意味ですから、大胆に危険な場所に踏み込むということです。困難な闇の世に、希望と平和と喜び、そして愛を携えてイエス様が来られる、その主ご自身のメッセージを預言者が伝えたのです。
  • 神…さて先主日から使徒信条のメッセージをはじめています。本日からその信条本文を12に分類して、みことばを学んでいきます。第1項は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。古ローマ信条では「我は全能(の父)なる神を信ず」。まず私たちは「神」を信じる者です。
  • 全能の父…その「神」とはどのような者なのかと言うと、“全能”であり、“父”である方だと、告白します。御使いガブリエルもイエス様の母マリヤに受胎告知で告げました。「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ福音書)と。その全能なる方が、私たちにとって“父なる方”なのです。父-子の関係は唯一です。父なる神は「愛する子よ」と呼んでくださる方です(②ペテロ1章17節)。新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださる方です(①ペテロ1章3節)。永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださる方です(②テサロニケ2章16節)。願う先に、必要なものをすでに知っておられる方です(マタイ福音書6章8節、32-33節)。だから「まず神の国と神の義を求め続けよ」とイエス様は断言なさいました。義(=真っ直ぐにピンと張られた状態)の関係を保ってくださる方です。この関係を旧約最後の預言者マラキは“義の太陽が上る”(マラキ書4章2節)と語りました。そこには癒しと躍動があると預言しました(同2節)。そして次なる預言者は「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」(同6節)と、のろいを祝福に変える出来事の到来を預言しました。

結び…どんなにこの世が闇の世であっても、否、闇の世だからこそ、そのただ中に希望と平和と喜び、そして愛を携えてイエス様が、困難を抱えている私たちのところに踏み込んで来られることを感謝します。

《追記》

zoom参加を希望される方は10時15分-25分の間に

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Posted on 11/29/2020 at 17:26, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『使徒信条(序)~待降節第一主日』(イエス・キリストの生涯 その136)(2020.11.29)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(…)ことばは、人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ福音書1章1、14節)

  • はじめに…本主日からイエス様のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。私たちはアドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、アドベントの主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日はその1本目で「アブラハムのキャンドル」です。主の約束を信じて信仰の歩みを始めた(創世記12章1節)“信仰の父”ゆえに、約束の成就としてのイエス様の誕生へと引き継がれてきたことを想起するキャンドルです。
  • アブラハムの信仰…まず「信仰とは何か?」という問いに対して、もっとも明快に告げているのはヘブル人への手紙11章1節でしょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」。その信仰によってアブラハムは、数多の困難を乗り越えながら人生行路を歩み続けました。(もちろん失敗も)①“主のみことば”に従って(75歳の後期高齢者で)旅立ち(創世記12章1-4節)②「全能の神」を(99歳の白寿で)知り(ローマ4章19-22節)、信頼をもってひれ伏し(創世記17章1、17節)③ひとり子イサクをモリヤの山で主にささげた(同22章9-13節)のです。このアブラハムが“天の故郷(=主の臨在)”(へブル11章16節)に想いを向け、また、死者の復活を信じていたことをヘブル人への手紙は、“信仰の型”と伝えています(同19節)
  • 私たちの信仰…では、今を生きる私たちキリスト者の信仰の内容は何でしょうか? もちろん“旧新約聖書66巻のみことば”です。それをひと言で表現すると、活けるみことばなる“イエス・キリスト”ということができるでしょう。この私たちが信じるイエス・キリストがどのような方なのかを簡潔に言い表すものが“使徒信条”です。宗教改革時代の中道派のエラスムスは使徒信条について「使徒のもつ威光と純正さのしるしを帯びている」とし、カルヴァンは「使徒時代から公の信仰告白として重んじられてきたことを疑わない」、そしてルターは「簡潔に正しく信仰の項目が見事に要約されている」と評しています。カトリック、プロテスタントの如何にかかわらず、その信仰の基準、規範としての正当性が担保されています。使徒信条として確立するその過程を遡ると“古ローマ信条”にその原型を見ることができます。さらに遡ると使徒たちによる主イエス様の福音宣教、その応答としての信仰の告白(バプテスマ)に至ります(使徒の働き2章、3章、8章他参照)
  • 結び…信仰の創始者であり、完成者であるイエス様にこころの目を向けて、この待降節の時を、ともに礼拝し、ともに証ししつつ歩める幸いを感謝します。
Posted on 11/22/2020 at 15:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ともに立ち、力を与えてくださった神』(イエス・キリストの生涯 その135)(2020.11.22)

神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎み(=懲らしめ/へブル語訳)の霊を与えてくださいました。(テモテへの手紙第2 1章7節

  • はじめに…先週、岐阜県御嵩(みたけ)町の郷土史研究家の渡辺正司さんから連絡があったとお話しましたが、渡辺さんと現地のボランティアガイドさんたちと一緒にキリシタン遺物の“ハート形手水鉢”を見に行ってきました。同様の遺物は小豆島、壱岐島にもありますから、今回御嵩町で確認されたことはキリシタン遺物としての確証が更に補完されたと言えます。木立の間をやさしく吹き抜ける風を感じつつ現地に立ち、キリスト教禁教下にあって祈りの灯を絶やさず、信仰を守り継承しようとした先達たちの面影を偲びました。
  • 絶筆の書簡…テモテへの手紙第二は、パウロ絶筆の書簡と言えます。自らの死期が間近に迫るのを感じながら(②テモテ4章6-7節)、パウロは寵愛する愛弟子のテモテに、あたかも遺言を残すように手紙を認(したた)めました。“あなたのことを絶えず思い起こしている”(同1章3節)“何とかして私のところに来てください”(同4章9、11、13、21節)と、最期の別れの時を顔と顔を合わせて過ごしたい、そんなパウロの人間味が滲(にじ)み出ています。
  • キリストの囚人…パウロはこの最後の書簡をローマの獄中で認めました。パウロは獄屋に縛られ、囚人(犯罪人)とみなされました。囚人には自由はありません。壱岐島にキリスト教宣教師を捕らえ拘留した“獄屋跡”があります。そこに捕らえられたモラーレス神父が書き残した書簡があり「私はこの牢獄に心から満足していましたから、世界中で最も名誉に満ちた良い場所とも交換したくなかった(…)私はここを牢獄とは思わず、愛する妻であり喜びの楽園だと考えていた」と記しています。パウロも牢獄にあって御国を思い、義の栄冠を授かるという希望を抱いていました(②テモテ4章1、8、18節)。主に対する信頼は微塵も揺らぐことなく、むしろ更に信頼が増し加えられていきました。人は見捨てても、主はいつもともに居られ、力を与えてくださるという確信に満たされていました(同17節)。それ故に愛弟子テモテにエールを送りました。「主の囚人であることを恥じないように」「臆病風邪に見舞われないように」(同1章7、8節)。聖霊によって“力と愛と慎み”の霊が与えられているのだ、私があなたに按手した時の重さと温かさとともに、主から与えられた召命と使命と任命を今一度思い起こしなさいと、遺言として励ましを与えました。キリストの囚人、キリストの愛に繋がれた者、これに勝る幸いは他にありません。
  • 結び…イエス様が皆さんの傍らに立ち、内側に主の愛が注がれ、弱さを強さに、恐れを愛に、懲らしめを平安に変え、復活の力を与えてくださっています。

《追記》

zoom参加を希望される方は10時15分-25分の間に

ミーティングID: 619 286 4474

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※注意事項

①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除をします)

②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります

Posted on 11/15/2020 at 22:31, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『与える神、あかしするキリスト・イエス』(イエス・キリストの生涯 その134)(2020.11.15)

私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。(テモテへの手紙第1 6章13節

  • はじめに…先週、思いがけないことが三つありました。一つ目は、津田一郎先生(中部大学教授・北海道大学名誉教授/数理科学・カオス学)から『富田和久講演集』(全四巻)を頂いたこと、二つ目は、壱岐の友人から近況の電話があったこと、三つ目は、岐阜県御嵩町の郷土史研究家の渡辺正司さんから連絡があったことです。向こう側からやって来る出来事、自力や努力の結果ではなく、一方的な恵みの出来事です。
  • 恵み…テモテへの手紙第一を継続して学んで、今日は、その最終章です。その最後でパウロは「恵みが、あなたがたとともにありますように」(①テモテ6章21節)で締めくくっています。“恵み”は聖書、あるいは信仰生活にとって最も重要な概念のひとつです。新改訳2017で検索すると380カ所ヒットします。聖書の語る“恵み(カリス)”とは、罪の奴隷状態(重荷)から解放されて新たな道が啓かれることです。それはイエス様が十字架の贖いの死によって私たちに新たないのち(永遠のいのち)が与えられることです。これは天地創造の父なる神が、ご自身の自由によって、価なしに、見返りなしに、一方的に私たちに惜しみなく与えられる愛の贈り物です。不合理の中、絶望せざるを得ないような状態の中にあっても、希望と喜びを見出すことができる“いのち”です。
  • 与える神、あかしされたイエス…全能の父なる神は、私たち一人ひとりに“いのち”(超自然的生命=霊的生命)を与えてくださっています。それは主の創造されたすべての物を、喜んで分かち合い、ともに楽しむようにという父なる神の、私たちに対する愛の源なる親心です。すべては主からの贈り物であり、恵みです。その極みがイエス様です。イエス様はその“いのち”を生き切ったのです。ご自身のいのちと引き換えに、罪に縛られていた(自力ではどうすることもできない)私たち一人ひとりを解放して自由にしてくださいました。そのイエス様の尊いいのちに覆われていることを体験して、生活のあらゆる場面でそのことを証しして、希望と愛を分かち合って生きること、それが私たちのミッションであり、生きがいです。
  • 結び…主の恵みが、皆さんお一人ひとりの上にあります。主が与えてくださったいのちを生きるとき、主から頂いた恵みを豊かに分かち合うとき、天に宝が積み上げられ、重みで天井が抜けるように一瞬にして主の栄光に包まれるときが訪れることを信じます。
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