Posted on 03/21/2021 at 09:24, by matsumoto
「(…)まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい(…)」(ルカ福音書19章29-48節)
- はじめに…先週、桜の開花の様子を見ようと、お弁当を持ってドライブに行きました。早咲きの枝垂れ桜は3分咲きくらいで、近くの公園のソメイヨシノはまだ蕾の状態でした。暖かい日が続いていますから今週末には満開になるのでは。楽しみです。
- オリーブ山のふもとから…エリコ(海抜マイナス258m)からオリーブ山のふもとのベテパゲ、ベタニヤに近づいたところで、イエス様は弟子に、ろばの子を引いて来るように指示をしています。オリーブ山は海抜814mです(ちなみに「やまがた百名山」の大平山(おおひらやま)がほぼ同じ高さです)。するとエリコの低地からオリーブ山の山頂までは約1000mの上り坂になります。
- 子ろばに乗って…旧約の預言書ゼカリヤ書9章9節に、柔和で、ろばに乗られる救い主の記述があります。メシア到来の預言の記事ですが、この預言の成就としてイエス様が、軍馬ではなく子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。そもそもオリーブ山のふもとから約1000mの急な上り坂、狭く曲がりくねった坂を上るには、軍馬は役に立たないのです。救い主イエス様のエルサレム入城のためには、一見、役不足に思えるような子ろばこそが、適役だったのです。子ろばにとってその役は重荷だったでしょうか? イエス様はおっしゃいました。「わたしの荷は軽い」(マタイ11章30節)。今、重荷を負って疲れている方は、わたしのところに来なさいと、イエス様が招いておられます。そこで人生の指針が明確に見えるようになり、再び起き上がる力が与えられます。
- 祈りの家へ…子ろばに乗ってイエス様は、オリーブ山を越え、エルサレムの神殿に入られました。そこは過越祭の巡礼者でごった返していたことでしょう。宮を一巡したイエス様は一旦、ベタニヤへ。そこはきっとマルタとマリヤ、ラザロの家だったでしょう。その翌日、葉だけで実のないいちじくの木を通り過ぎ(マルコ11章12-14節)、再び宮へ入るやいなや、商売人たちを激しい剣幕で追い散らしたのです。ベツレヘム(パンの家)で生まれ、ベタニヤ(に柔和な家)でラザロを生き返らせたイエス様が、ご自身の家であるベテピラ(祈りの家)で贖いとなられるために過越祭に宮へ入られたのです。地上生涯最期のとき、イエス様の魂は、岸壁に打ち寄せ砕け散る荒波のように激しいものでした。シオンを、ねたむほど激しく愛された故です(ゼカリヤ1章14節)
- 結び…イエス様は、私たち一人ひとりを激しく愛しておられる方です。
《追記》
Zoom礼拝参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に
ミーティングID: 619 286 4474
パスコード: 3D3M69
でアクセスしてください。
ホストから参加の許可設定をします。
※注意事項
①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)
②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります
Posted on 03/14/2021 at 04:59, by matsumoto
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」 (ルカ福音書19章10節)
- はじめに…いとすぎ教会も昨年8月からzoomでの礼拝参加が出来るように環境を整えています。基本、顔を直に合わせて礼拝することが大切と考えていますので、積極的に導入した訳ではありませんでしたが、思いの外、その有益性と可能性を実感しています。各大学でもオンライン授業が昨年4月から行われているようですが、対面授業の時は欠席者を気かけることが無かった教員たちが、オンラインになり、欠席学生一人ひとりにメッセージを送る等、アプローチするようになった結果、対面授業と比べて脱落する学生が激減したそうです。学生が学習意欲を失ったのは、「教員に個体識別されていない」ということが一因であって、教員から名前を呼びかけられたことで、ささやかながら社会的承認を得て、救われた(意欲を回復した)ということです。
- 取税人ザアカイ…先主日、エリコは海抜マイナス258mで、世界で最も標高の低い町であることを学びました。今日は、そのエリコで取税人の長として生活していたザアカイとイエス様の出会いの出来事です。取税人という職業は、ローマに魂を売った裏切り者、罪人のレッテルを、同胞のユダヤ人たちに貼られ、嫌われていました。なぜザアカイは取税人という職業を選んだのでしょうか? もしかしたら“背が低かった”ことのコンプレックスがあり、それを補う優越感を得るためだったのかも知れません。あるいは取税人という仕事に純粋に誇りを持っていたかも知れません。ザアカイという名の意味は「純粋」という意味だからです。富がその人の社会的地位を表すと考えていたローマ社会の考え方からすれば、社会的には頂点にまで登りつめたと言っても良いかもしれません。しかし、何か満たされない思いで過ごしていたのでしょう。そこへイエス様が通りかかったのです。そして背の低かったザアカイはいちじく桑の木に登ります。
- 名を呼ばれるイエス様…イエス様はいちじく桑の木の下から「ザアカイ」と名を呼ばれました。きっと優しい親愛の情のこもった呼びかけだったことでしょう。それは両親が呼んでくれた響き以上のものがあったと思います。ザアカイという名はヘブル名ではゼカリヤで「主は覚えている」という意味があります。その名の通り、主は最初からザアカイを丸ごとすべてご存じなのです。同様に私たち一人ひとりのことも、私たち以上にご存じなのです。
- 結び…イエス様はいつも私たちを、愛をもって見つめ呼びかけてくださいます。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
《追記》
Zoom礼拝参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に
ミーティングID: 619 286 4474
パスコード: 3D3M69
でアクセスしてください。
ホストから参加の許可設定をします。
※注意事項
①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)
②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります
Posted on 03/05/2021 at 22:55, by matsumoto
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。 (ルカ福音書18章37-38節)
- はじめに…寒さも和らぎ、桜のつぼみも赤みを帯びて少しずつ膨らんで来ました。コロナ禍であっても春はもうすぐそこまで来ています。「明けない夜はない」と言うように、今、冬の夜のような厳しい状況のただ中にあったとしても、必ず春になり、日は昇ります。私たちの人生の行く手に“壁”が立ちはだかっていても、崩れ去り、破られます。
- エリコ…今日のみことばは、エリコに住む目の見えないバルテマイの救いの出来事です。エリコは海抜マイナス258mで、世界で最も標高の低い町です。またエルサレム神殿に仕える祭司階級の半数(約3千人)が住んでいました。
- 生活困窮者バルテマイ…当時、病気や障害は、本人または両親の罪のため、と考えられていました。それゆえ、目が見えない障がいを負っている人々は、疎んじられ、蔑まれていました。当然、働く場がなく、否応なしに物乞い生活をせざるを得ませんでした。つまりバルテマイは世界で最も低い町で、最も身を低くして生きざるを得なかったのです。
- 壁の崩壊…旧約聖書ヨシュア記に、モーセの後継者ヨシュア率いるイスラエルの民が、エリコの町を取り囲んでいた難攻不落の城壁を崩した記事があります。民の叫びと角笛の音で壁が崩れたのです。同様に、バルテマイの叫びによってバルテマイの目の前に立ち塞がっていた分厚い“見えない壁”が崩れ去ったのです。「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください」(ルカ18章38節)と、ここぞとばかりに腹の底から振り絞るようにして大声で叫んだのです。
- 信仰の告白…「ダビデの子」とは「来るべき救い主」と同じ意味です。群衆は「ナザレのイエス」だとバルテマイに知らせましたが、バルテマイは「ダビデの子よ」(同39節)とイエス様に叫びました。今、自らの声の届くところ、手の届くところに、待ち望んでいた救い主がおられる、そう確信し、信仰を告白したのです。周囲の人々には、耳障りな“物乞いのたわごと”としか受け止められませんでしたが、イエス様ただお一人が、バルテマイの叫びを信仰告白として受け止められたのです。そして「あなたの信仰があなたを直した(救った)」(同42節)と言われ、バルテマイの霊眼が開かれ、主をあがめ、イエス様に付き従ったのです。
- 結び…イエス様を救い主と信じ告白するとき、崩れない壁はありません。
《追記》
Zoom礼拝参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に
ミーティングID: 619 286 4474
パスコード: 3D3M69
でアクセスしてください。
ホストから参加の許可設定をします。
※注意事項
①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)
②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります
Posted on 02/28/2021 at 09:46, by matsumoto
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン(詩篇49篇7-9、15節、イザヤ43章4-5節、11節、25節、マタイ18章21-22節、①コリント15章20-26節、50-58節他参照…聖霊なる神③)
- はじめに…2月17日から受難節が始まりました。今年のイースターは4月4日になります。昨夜は大きな真珠のような満月が出ていました。黙示録に“新しいエルサレム”のビジョンが記されてあり、そこには12の門があり、「真珠からできていた」(黙示録21章21節)とあるので、しばし思いを馳せました。次の満月が3月29日(月)で、その後に来る主日がイースターになります。
- 罪の赦し…今日が使徒信条の学びの最終回です。“罪の赦し”が聖書の中心的メッセージと言ってもよいと思います。そもそも罪(原罪)は、最初の人間アダムとエバによって人類に引き継がれました。罪は神との約束(契約)を破棄することで始まり、“責任転嫁”“責任転「主」”あるいは“自己正当化”をするようになります(創世記3章12-13節)。それは人間には罪の代価を自分で支払うことは出来ないからです(詩篇49篇7-8節)。それは主ご自身のみがお出来になることです。
- 罪の代価…神様は私たちに息を吹き入れ、私たちを生きる者として下さいました。つまり聖霊を受け、神様との関係の中で、その愛の中で生きる者としてかけがえのない者として造られたのです(イザヤ43章4節)。イエス様はたとえで「1万タラント」の負債を負ったしもべの話をしています(マタイ18章24-27節)。1日5千円の日当なら3千億円です。それを主は免除してくださる方です。私たちの犯した罪がどれほど重大であったとしても、主の私たちに対する愛は、その独り子イエス様を贖いの代価とするほどに大きいのです。
- 身体(人生)のよみがえり…私たちは罪赦された者として、人生を新しく生き直す者として主に招かれています。イエス様は“死”に打ち勝たれた方です。罪によって死がこの世に入り込み、“死のとげ”が私たちを悩まし続けます。過去を悔い、将来を不安に陥れ、生きる意欲を弱らせます。しかしイエスの十字架の贖いの死、そして初穂としての復活によって、御国に向かって、今、生かされている瞬間を喜びと感謝と希望を持って、主とともに、そして隣人とともに愛の中で生きる者となり、事実なっています。QОL(Quality Of Life)という福祉用語がありますが、教会における罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命こそ、主の愛に満ち満ちた究極のQОL(Quality Of Lord)、御国の先取りです。
- 結び…創造の父なる神、救い主イエス様、慰めの聖霊様を感謝します。
《追記》
Zoom礼拝参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に
ミーティングID: 619 286 4474
パスコード: 3D3M69
でアクセスしてください。
ホストから参加の許可設定をします。
※注意事項
①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)
②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります
Posted on 02/21/2021 at 09:42, by matsumoto
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、(申命記7章6-8節、マタイ16章13-19節、エペソ1章22-23節、同4章4-6、15-16節、ヨハネ17章11-26節他参照…聖霊なる神②)
- はじめに…私がはじめて教会に足を運んだのは、国鉄(現JR)を一時帰休して大学に通っている時でした。牧師の語る礼拝のメッセージを初めて聞き、内容は良く分かりませんでしたが、魂を揺さぶられる体験をしました。すぐには教会には繋がりませんでしたが、29歳でバプテスマ(洗礼)を受けて以来、今日まで信仰生活を続けさせて頂いています。一般的にキリスト教会では受浸した教会のことを“母教会”と呼んでいます。教会は母として信仰を育むところだと言うことでしょう。
- 教会(=呼び出される)…教会のことをギリシア語で「エクレーシア」と呼びます。“呼び出される”という意味です。ヘブル語では「カーナス」で“集まり”です。つまり私を含め皆さんお一人ひとりが自分で教会を選んだのではなく、聖霊様(=傍に呼ぶ・慰めの意)によって呼ばれ、共に集められているのが教会です。そしてその教会は“キリストの体”(エペソ1章23節)です。
- 聖なる公同の教会…「聖なる教会」と言うと、聖人君子のような何の欠点もなく何でも完璧にこなせるような清廉潔白で能力のある人が集まるところのような印象を受けるかも知れませんが、そうではありません。「聖」とは、神様に“取り分けられた”という意味です。神様は、能力のあるなしや、役に立つか役に立たないかという基準で選ばれるお方ではなく、主ご自身の愛によって招き入れて下さるお方です。私たち(欠点多き罪人)の本質をよくご存じの主が、その私たちを世から取り分け、働かれる現場が教会だと言うことです。そして「公同」は、“普遍的”と言うことで、教会の頭であり主であるイエス様は他のものに変わることはないと言うことです (へブル13章8節)。
- 聖徒の交わり…イエス様が頭であり、そのからだである教会には交わりがあります。その中で核になるものが聖さん(主の晩餐)です。これは形だけの儀式ではありません。聖さんを通して聖霊様が働き、体中を血が巡り、栄養が体の隅々にまで行き渡るように、イエス様の愛が一人ひとりの内側に満ち満ちて、主の愛に感謝し、お互いを赦し、慰め、いたわりあってキリストの身の丈にまで成長していきます。キリストのからだである教会の成長は、各個教会の枠を超える聖霊様の働きです。
- 結び…今日もイエス様ご自身なる教会に愛によって招かれ、ともに生かされていることを感謝します。
《追記》
Zoom礼拝参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に
ミーティングID: 619 286 4474
パスコード: 3D3M69
でアクセスしてください。
ホストから参加の許可設定をします。
※注意事項
①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)
②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります