Posted on 10/09/2022 at 17:53, by matsumoto
神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(出エジプト22章28節) /パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」(使徒の働き23章5節)
◆はじめに…昨日の夕方、東の空にぽっかりと丸い月が浮かんでいました。明日10日から、仮庵の祭り(スコット)になります。庭やベランダに“スッカー”という簡易な小屋を建てて、家族、親戚がその仮小屋で過ごします。収穫の恵みの感謝(出エジプト記23:16)という側面と、エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエル民族が、約束の地に行く40年間の荒野放浪生活を主が守ってくださった歴史(レビ記23:42-43)を記憶する側面があります。また壊れやすく、風雨に対して無防備な仮の住まいは人間存在の億弱さを表していると同時に、その脆い人間を覆っている主の守りが、過去も現在も、そして将来にわたってあることを覚える機会になります。
◆ルラブの花束…先週、家内は、プリザーブドフラワーのアレンジの講座に出掛け綺麗なバラとアジサイのアレンジメントを作りましが、仮庵の祭りの際、シナゴーグでは 、イスラエルの地に育つ四種類の植物を花束にしたアルバ・ミニム(ルラブ・ブーケ)を打ち振る典礼が執り行われます。束にするのは、多種多様な者が、誰一人として欠けることなく、お互いを必要としていることを象徴しています。つまり誰も置き去りにされず、多様性(違い)を包み込む世界を現しているのがルラブの花束なのです。
◆のろってはならない…今日のテキストの出エジプト記は「神をのろってはならない。(…)上に立つ者(指導者)をのろってはならない」と語っています。そしてパウロ(パリサイ派)は大祭司アナニヤ(サドカイ派)に対して「白く塗った壁」だと非難を口にしましたが、それに対して議員たちは「大祭司をののしるのか」と逆に悪口を浴びせました。それでパウロは皮肉を込めて先ほどの出エジプト記のことばを引用したのです。パウロの真意はアナニヤが真の大祭司であったなら、と。パウロにとっも、私たちにとっても永遠の大祭司はイエス様です(ヘブル5章1-10節他)。またイエス様はおっしゃいました。「人の先(上)に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10章44節)。
◆結び…私たちはルラブの花束として、違いを包み込み、共に永遠なる大祭司であるイエス様を賛美し、もっとも小さな者の声に耳を傾け、歩みを共にする者であることを覚えつつ、知恵と力と勇気を与えて下さる主に感謝を捧げます。
Posted on 10/02/2022 at 17:51, by matsumoto
目は目。歯には歯。手には手。足には足。(出エジプト21章24節) /『目には目、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ福音書5章38節)
◆はじめに…ロシアのプーチン大統領が先月21日に発動した動員令(徴兵令)から逃れるため出国したロシア人は約26万人以上に達したとCNNが伝えていました。法律によって国を守るために人殺しを強制されたくない、あるいは自分のいのちを犠牲にしたくないという、自然な思いと行動だと思います。
◆目には目、歯には歯…本日のテキストは、いわゆる民法、刑法に相当する決まりが記されてある章のうち、刑法の根幹の部分と言える箇所です。人の本能(自然な感情)として復讐心(仕返しをしたいという気持ち)があります。しかしその感情は時として暴走し、過剰な行動をしてしまうことがあります。典型的な例がかつてのモーセの行動があります(出エジプト記2章11-12節参照)。その過剰なリベンジに対して法的に“歯止め”をかけるのが、「目には目、歯には歯」でした。“同態復讐法”と呼ばれるものです。ただ復讐の連鎖を完全に断ち切ることは不可能です。それは現在の世界がいまだに復讐の連鎖が続いていることを観れば明らかです。そして日本においては、報復することは正義として、「敵基地攻撃能力」とか「反撃能力」という表現で、戦争放棄の大前提がある憲法(※)を有名無実化しようとする動きが活発になっています。
◆黄金律…イエス様は、旧約に記されてある“目には目、歯には歯”の律法の精神を徹底します。「左の頬も向けなさい」「上着もやりなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」「求める者には与え」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(…)「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ5章38節-7章12節参照)。この根拠は、天の父のみこころだとイエス様は語ります。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ(…)雨を降らせ」「あなたがたに必要なものを知っておられ」「隠れた所で見ておられるあなたの父が報い」「求める者たちに良いものを下さる」(マタイ5章45節、6章8節、18節、7章11節参照)と。
◆結び…天の父は、私たち自身では返済不能の罪の代価を、御子イエス様を十字架に付けられることで、私たちのいのちを買い取ってくださいました。私たちのいのちは、イエス様のいのちと引き換えにして、天の父が私たちに与えて下さったいのちです。いのちの限りを尽くしてイエス様が示された黄金律を、身をもって為す者でありたい、そう願います。
※日本国憲法前文
日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。
Posted on 09/25/2022 at 16:26, by matsumoto
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節) /モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また、『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。(マルコ福音書7章10節)
◆はじめに…連日、旧統一教会問題がメディアで取り上げられています。かつて十代の頃、名古屋の街角でアンケートを求められ、その後ビデオセミナーに誘われました。『原理講論』というビデオを見せられ、その後、コーヒーを飲みながらビデオの感想を聞かれ、質疑応答というものでした。結局、その内容に納得できず、ジ・エンドでした。
◆第五戒の大誤解…本日のテキストは、モーセの十戒のうちの第五戒「あなたの父と母を敬え」の戒めと、それを歪曲して大誤解しているパリサイ人と律法学者を戒められたイエス様の記事です。いわゆる形式的な“口伝律法”に対する実存としての“みことば”の優位性です。人はいとも簡単に神のみことばよりも、人の言葉を優先させてしまいます。そのことをイエス様は指摘されました(マルコ7章11-13節)。
◆父と母を敬う…両親が統一教会の信者で、経済的、精神的圧迫の末、脱会したある二世信者の方が次のように語っていました。「教会から出た後の世界は全然楽しくなかったです。教会以外のコミュニティがなかったので両親を含む全ての人間関係を失い、孤独に苦しむ日々でした」。ところで“敬う”を「Respect」と訳している聖書があります。尊重するという意味ですが単語を分解すると「Re(振り返る)+ spect(見る)」となります。統一教会を脱会し、自らの足で人生の旅路を歩み始め、立ち止まっては過去(自らのルーツである父母)を振り返り見る。しかし過去も現在もそして将来の希望も見えない。イスラエルの民がエジプトによって関係を断絶されたように、宗教によって、あるいは国によって、あるいは自身の主義主張によって人間関係(親子関係、家族関係、コミュニティー)が切り裂かれているのが、現在、私たちの置かれた世界の状況です。
◆結び…しかし主は、安らぎの居場所を失った者を放っておかれるお方ではありません。人生の旅路に同伴してくださるお方です。そして確かに平安に満ちた地を与えて下さるお方です。そのために奴隷の状態から解放してくださったのです(出エジプト記20章2節)。その地は私たちが私たちらしく主と隣人とともに安んじて暮らせる地、エデンの園の回復した地、アダムの尊厳が復権した場です。私たちはすでにその途上にあります。
Posted on 09/18/2022 at 15:33, by matsumoto
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト19章6節) /しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロの手紙第一2章9節)
◆はじめに…先週、映画『百花』を観ました。シングルマザーで音楽教室を営む母・百合子(原田美枝子)が、ある日突然目の前からいなくなるという体験をした息子・泉(菅田将暉)。その心の溝を埋められないでいた二人。母の認知症が進行していく中で、忘れていた母との思い出の断片を想い起こし、母の愛に対する愛おしい感情が心の溝に流れ込んで来る、そんな映画でした。創造の主、贖いの主イエス様の愛に対する私たちの応答の過程に似ているのかも知れません。
◆神にとっての私たち…本日のテキストは、神様にとって、私たちはどんな存在なのかという人物紹介と、神様の愛に対する私たちの応答についての記事です。神様の目から見て、私たちは「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」(新改訳)だと、ペテロはその手紙に認(したた)めています。別の聖書の訳で見てみると「身内として選ばれた者 택하신 족속(族属、身内)」「왕같은 제사장들(王のような祭司長)」「royal priesthood(王室の祭司)」「とっておきの民(大切な、所重(소중한))」となります。「わたしの宝」とも(出エジプト記19章5節)。神様は私たちを世界の基の置かれる前から選んだのです(エペソ1章4節)。神様にとって私たちは最大の関心事、最愛の者、“いち押し”の者なのです。暗やみの世の中にあっても、神様の「驚くべき光」の懐(ふところ)に私たちを招き入れて下さっているのです。それゆえ、私たちは素晴らしく、純粋で、色褪せない、「美しく輝く月明かり」のように闇を照らして生きられるのです。
◆私たちの応答…そのように神様から守られ、愛されている私たちは、自分の意思や努力や修養によってキリスト者となったのではありません。一方的な神様の恵みと憐れみ、愛によってキリスト者になった私たちは、神様に対しては、絶えずその前に(仲介なく直接)立って、賛美と感謝をもって仕える祭司です。人と世に対しては、自分自身を含めこれを支配(下から支え配慮)する王です。私たちの生活の目的は、快楽や成功のためでも安身立命でもなく、身をもってイエス様から受けている愛に対する応答をすることです。
◆結び…神を愛し、隣人を愛する一週間でありますよう、祈ります。
Posted on 09/11/2022 at 19:17, by matsumoto
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。(出エジプト16章18節) /「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。(コリント人への手紙第二8章15節)
◆はじめに…9月10日は“中秋の名月”ということで、今日の真夜中に空を見上げてみましたが、あいにく雲がかかっていて満月を見ることはできませんでした。エルサレムはどうかと思い、ライブカメラを観てみましたが、残念ながら、こちらも曇り空のため満月は見ることはできませんでした。しかし雲の向こう側には確かに真ん丸のオレンジ色に輝くお月様が浮かんでいることは確かです。お隣の韓国では“秋夕(チュソク、추석)”で賑わっているのでしょう。中秋の名月の次の満月が来ると、いよいよ“仮庵の祭り”です。
◆マナ…本日のテキストは、出エジプト記は「マナ」について、そして②コリント人への手紙は旧約を引用して「献金」の取り扱いについてパウロが意見を述べる箇所です。私(たち)は、多く集める=欲張り、少なく(しか)集められなかった=貧困というように考えがちです。しかし、マナも主の賜物(贈り物)であり、そのマナを集めるための健康、能力、勤勉さも主からの賜物(タラント)です。私たちの周囲は、自分自身も含めて、すべて主の賜物で満ちているのです。そして自然と分かち合いの気持ちが湧き出るように創造されているのです。そして賜物を受ければ喜びが溢れるように創造されているのです。その現実を味わいなさいというのが、主が私たちに託された喜ばしい課題なのです。それは善悪の知識の木に躓いた人間に対する“一本の木”(柳=ぎょうりゅう)の出来事です。
◆いのちのパン…さらにその出来事は主イエス様へと引き継がれました(ヨハネ6章35節)。天からのまことのパンであるイエス様は、モーセを通して与えられたパン(マナ)を遥かに超える、決して飢えることのない、“いのちのパン”です。もちろん、お月見団子やソンピョン(松餅=송편)も美味しいでしょうけれども比較になりません。主イエス様は、いのちのパンとして、私たち罪人を死から解放するために一本の木、すなわち十字架に釘付けになられたのです。
◆結び…そしてその朽ちないいのちを与えるのは御霊です(ヨハネ6章63節)。ペンテコステの出来事のように、御霊が分かち合われるところに、まことの神の愛の経済(交流)があります。神の愛の経済には、好景気も不景気もなく、絶えず満ち足りた恵み、まことの秋夕(チュソク、추석)があります。