Posted on 08/06/2023 at 04:49, by matsumoto
偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください(詩篇35篇19節) /これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法(=旧約聖書全体)に書かれていることばが成就するためです(ヨハネ15章25節)
◆はじめに…梅雨も明け、夏本番。全国的にモーレツに暑い日が続いています。夏バテ、脱水症、熱中症等々、体調を崩しやすいので適切に健康管理をして、夏を乗り切りたいと思います。ただ健康管理をできる人は良いのですが、通所リハの利用者さんの中には、家族の目を気にして、あるいは、少ない年金生活で節約するために冷房を使わず、暑い隠居部屋にこもっているような方もみられます。身体のリハビリも大事ですが、社会、家庭におけるリハビリ=名誉回復も必要不可欠だと思わされます。
◆理由なき憎悪(差別、抑圧)…ところで先日、恩師に会いに出かけたことをお話ししました。その恩師が設立に関わった「大牟田恵愛園」という障害者支援施設があります。その基本理念はヨハネ15章12節『わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』に基づくものです。その中で、“社会の中で差別・抑圧され、弱い立場に立たされている方々と出会い、生の声に耳を傾け、そこから学ぶ視点を大切にする”という項目があります。“差別・抑圧される”と言うのは、言い替えれば“理由なき憎悪”と言えるでしょう。
◆愛…とするなら、“愛する”というのは、社会(世)から“理由なき憎悪”の憂き目に遭っている人の側に立つことを意味するのでしょう。イエス様はご自身、お生まれになったときから、地上生涯を終えるまで、“理由なき憎悪”に晒され続けて来られました。どれほど、もどかしい思い、悲しい思い、憤りを味わったことでしょうか? そのイエス様が、捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架に掛けられる、ほんの数時間前に、今日のテキストのヨハネ15章を、告別説教として語られたの。理由なき憎悪を嘗(な)め尽くしたイエス様だからこそ、今、経済的、心理的、性的な抑圧、差別、偏見のために苦しんでいる人の側に立ち、『豊かに実を結ぶようにする、あなたはもうきよい、わたしの愛の中にとどまれ、わたしの“友”よ、わたしがあなたを選んだ、わたしの名によって父に求めるものは何でも、父がお与えになる』と、私たちの存在理由を明らかにされたのです。“あなたはわたしの大切な、愛する者”
◆結び…私たちの周囲の環境がどうであっても、主は私たちを愛し、共に生きてくださっています。
Posted on 07/29/2023 at 22:11, by matsumoto
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな(詩篇34篇13節) /舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず(①ペテロ3章10節)
◆はじめに…先週の月曜日、職場で社内研修会がありました。内容は、①口腔ケア②身体拘束防止③虐待防止についてでした。「以前、学んだから、それくらい知っているし、やれている」と思い込んでいることがあるなあと、どれも改めて勉強になりました。今一度、自分の介護技能のレベルを振り返り、基本に立ち返る必要を感じました。きっと、これは仕事としての介護に留まらず、日常生活全般、牧会(魂への配慮)についても同様だと思います。もっとも興味深かった学びは、虐待(拘束)の一種である“スピーチロック”でした。スピーチロックとは言葉で相手の行動を制限することです。条件反射的に使ってしまうものとして「ちょっと待ってください」という一言もスピーチロック、すなわち虐待(拘束)だということです。しかし、みことばなるイエス様は、私たちを自由にしてくださるためにこの世に来られ、さらに聖霊様を遣わされました。スピーチロックに対して、イエス様は、みことばで私たちを“スピーチフリー”してくださいます。みことば(真理)によって解放してくださり、自由にしてくださり(ヨハネ8章32節参照)、行動変容(主に近づき、みこころのために過ごす)をさせてくださいます。
◆ソロモンの知恵…ところでダビデの子ソロモンは、夢で主なる神様から「与えて欲しいものを願え」と言われた際、(自分のためでなく)民を正しく導く知恵を主なる神様に願いました(①列王記3章1-28節)。その知恵のひとつを現したエピソードが「二人の遊女に対する裁き」として記されています。ソロモンは今日のテキストにある舌を悪口、欺きを語らないことにとどまらず、その舌を積極的に用いて、歴史に残る、あっぱれな“名裁判”をしました。また、主なる神様はソロモンに、知恵に加えて、長寿、そして富と誉れをも与えると約束してくださいました。しかしすべてには限りがあります。実際、ソロモンの齢は80歳でした。
◆真理(知恵そのもの)なるイエス様…聖書(ルカ福音書2章)は、イエス様が成長し、知恵が満ち溢れる様を記しています。イエス様は父なる神様の知恵そのものであり、イエス様はご自身を「道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14章6節)と伝えています。さらに「わたしはよみがえり」(同11章25節)と語られ、事実、死から復活されました。しかも、霊として陰府(よみ)に降り、捕われの霊に、みことばを宣べられ、解放されたのです。今も、救い(解放)の御業(スピーチフリー)を続けておられます。
◆結び…主のすばらしさを味わい、見つめ、主の証し人としての一週間となりますように。
Posted on 07/23/2023 at 06:20, by matsumoto
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。詩篇32篇1節) /ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」(ローマ4章6-7節)
◆はじめに…先主日は恩師と会うため大牟田へ出かけ、大牟田フレンドシップ教会の礼拝に出席しました。執事さんによる教会学校のメッセージ、牧師のメッセージを聞き、それぞれのメッセージを通して聖霊様の感動を覚えました。みことばを聞くことの祝福は何にも代えがたいものがあります。私たちの弱さをよくご存じの主の憐れみに感謝します。
◆罪とは何か…私たちは、耳にタコができるくらい、「罪」「罪人」という言葉を聞いています。では、その罪とは何ですか? と問われたらどう答えるでしょうか。聖書(みことば)が問うているのは、数え上げることのできる複数形の罪、すなわち法律的な意味での「罪」ではなく、数え上げることのできない、本質的な罪、すなわち“原罪”です。創世記のアダムとエバのエデンの園でのエピソードで語られている罪です。つまり、神様を無視して神様から離れていること、神様から逃げて隠れていること、神様を神様として認めず、畏れない生き方、的外れな生き方です。別の言い方をすれば自己中心的な生き方です。自分は正しい、自分さえ良ければと、他を押しのけて、何よりもまず自分の欲望(願望)を実現しようとする生き方です。その罪の性質はすべての人が持っている性質です。
◆罪赦され、覆われて…実際に罪の性質ゆえに、過ちを犯したとき、私たちは、その痕跡を隠そうとします。あるいは自分の所在を隠そうとします。仮に一時的に隠すことに成功したとしても、胸は疼(うず)き、恐れ、不安が纏わりついて離れなくなります。そのことをダビデは詩篇32篇3-4節で回想しています。罪そのもの、罪ゆえに犯した過ちは、自分の力(行い)では解決不能です。別の道が必要なのです。罪あるまま、主の前に出る道です。私たちが向きを変えて主の元へ歩もうと決心したとき、主の方から一方的に罪のとがめを赦してくださることをダビデは体験しましたし、イエス様ご自身も「放蕩息子のたとえ話」を通して、父なる神の愛と赦しを語ってくださっています。
◆結び…罪人なる私たち一人ひとりの弱さ、そして胸の疼き、苦しさをご存じの主は、「あなたはどこにいるのか?」「わたしのところへ帰ってきなさい」と、御手を広げて招いておられます。幸い、祝福への通路は常に私たちの前に開いています。ありのままの私たちの姿で、ともに主の御許に近づきたいと願います。
Posted on 07/08/2023 at 21:35, by matsumoto
私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31篇5節) /イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカの福音書23章46節)
◆はじめに…毎日、炊事洗濯をしてほぼ二週間。日に日に段取りが良くなり、食事のバリエーションも少しずつ増えつつ、日常のルーティンになってきました。基本、家事は三六五日休みなしなので、世の専業主婦の方々には敬服します。どうモチベーションを保っているのか、尋ねてみたいです。
◆夕べの祈り…さて、ユダヤ人は今日のテキストの詩篇31篇を夕べの祈りとして祈ると言われています。私も先週から、この詩篇31篇を毎夕の祈りとして祈っています。祈りは“呼吸”“交流”です。そしてそれは「瞬間のいのち」「日々成長するいのち」そして「永遠のいのち」につながっていきます。イエス様ご自身も一日の御業を終え、ひとり寂しい所へ退かれ、詩篇31篇の一節「わが霊を御手にゆだねます」と毎夕、祈っておられたのではないでしょうか。日々を精一杯、力の限り生き、御業をなし、疲れ果てたからだを横たえ休むとき、すべてを父なる神に委ねて眠りについたことでしょう。イエス様は言いました。「その日の労苦はその日だけで十分」。「疲れた者はわたしのところへ来なさい。わたしが休ませてあげよう」。
◆賜物としてのいのち…夜が明け、朝がやって来るとき、それは父なる神が創造の初めに、霊の息を最初の人アダムの鼻から吹き込まれ、生きる者となったように、私たちも、毎朝、新しいいのちが賜物として与えられます。その賜物としてのいのちをその日一日、日が上り暮れるまで思い切り用いることが、いのちを与えられた人の使命でしょう。そして一日の終わりに、自らの内に残っているいのちをすべて主の御手にお返し=信託するのが、今日の詩篇31篇5節の祈りでしょう。
◆レプタ2枚の信託…レプタ2枚をささげた貧しいやもめの出来事が聖書に記されてありますが、この婦人の信仰も“御手への信託(贖い)”の信仰そのもの、具体でしょう。今日のいのちとそれを支える財(賜物)を、すべてを主に信託し、翌日、いのちが新たに贈り物として与えられるなら、それはいのちの一新、“いのちのバージョンアップ”(主に対する信頼が増す)でしょう。
◆結び…その父なる神に対する絶対的信頼ゆえに、「私の霊を御手に委ねます」と十字架の上で、地上生涯最後の祈りとして、イエス様は祈ったのでしょう。
Posted on 07/01/2023 at 20:27, by matsumoto
地とそれに満ちているもの、世界とその中に住む(障がいがあっても、老いても“良い”とされた=筆者補足)者は主のものである。(詩篇24篇1節) /地とそれに満ちているものは、主のものだからです。(①コリント人への手紙10章26節)
◆はじめに…先々週、先週と大きな出来事がありました。ひとつは、入浴介助で利用者さんを抱えた際、腰を痛め、立ち上がりが困難になり、病院受診のため一日、仕事を休んだこと。もう一つは、眞津代牧師が歯の治療のため約2カ月の予定で春日井へ帰省し、その間、私自身、単身赴任状態になったことです。腰の方は早目の病院受診で悪化は免れ、単身赴任状態の間は、自己の健康維持・メンタル管理が喫緊の課題です。羊飼いなる主イエス様に朝夕祈る毎日です。
◆すべての創造者なる主…先主日は詩篇23篇「主は私の羊飼い」が主題でしたが、今回の詩篇24篇は「すべての創造者なる主」が主題です。壱岐の島では主の創造の壮大さ、偉大さを実感させられる所が島中にあります。今回アップした写真のように、詩篇24篇2節「まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川(潮流)の上に、それを築き上げられた」とのみことばを実感させられる場所も、各所にあります。主の創造の御業の源は“愛”です。そして創造したすべてのものを“良い(=憐れまれた)”とされました。愛と憐れみの主です。
◆永遠の門、戸よ。上がれ…使徒パウロは、この詩篇24篇1節のみことばを引用しています。それをキリスト者の「自由と愛」の文脈の中に置いています。そして、すべての真の所有者は主であり、主の御心(栄光)に基づいて行動の価値判断をするよう、勧めています。私たちは誰の意志(声)を大切にし、具体的行動に移すのかが、問われます(創世記参照)。私たちには主の御声に聞き従う“自由”があり、利己ではなく利他、すなわち“愛”を基準にして行動する責任応答性が求められています。自らの知識に依り頼むのではなく、聖霊による感動が“自由と愛”の確かな霊的判断基準になります。困難、試練はあります。しかし、乗り越えられない試練はなく、それに耐えうる力、知恵、脱出の道(主に近づく道)が必ず与えられます。今、エルサレムの東側にある黄金門(美しの門)は分厚い壁で塞がれています。私たち自身の霊(心)の門はどうでしょうか? イエス様が私たちの戸の外に立って「戸(門)を開けて」と御声を掛け、ノックしておられます。
◆結び…私たちが固く閉ざしている戸(門)をイエス様の御声を聞いて開くとき、イエス様の“自由と愛”が私たちの心の中に止めどなく流れ込んで来ることを信じます。それは創造主が私たち一人ひとりに持っておられるイメージ(似姿)です。