Archive for 2月, 2024

Posted on 02/26/2024 at 19:40, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『はからずも』(新約に引用されている旧約 その78)(2024.2.25)

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く(イザヤ11章10節) /エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける(ローマ15章12節)

◆はじめに…日経平均株価が、22日、バブル絶頂期の1989年12月につけた3万8957円を超え、3万9098円と約34年ぶりに史上最高値を更新しました。株式投資をしている人たちは、熱気を帯びていることと思います。ただバブル崩壊後は7000円台にまで株価が下落していることを歴史は伝えています。ところで「株」の語源は、木を切った後に残る「切り株」(stock)が由来だとされています。その切り株から生える枝はやがて成長することから、「お金が増えていく」ことをイメージするのと同時に、枝分かれしていくことから「分配する」といったものへとつながったとも言われています。私たちにとっての真の切り株は“ナザレのイエス”に他なりません。主イエス様に信頼し、“天に宝を積む”投資(祈り)と、天から降って来る配当(御霊の実)に優るものはありません。

◆エッサイの根(切り株)…今日のテキストの主題は“エッサイの根(切り株)”です。切り株ですから、大木が切り倒されている状態です。すなわちイザヤが活動していた当時、ダビデ王家(南ユダ王国)が重大な危機にあったことを示しています。イザヤの再三の警告と希望の預言に耳を傾けず、当時のアハズ王もヒゼキヤ王も人間的な画策(他国に頼ること)をして窮状を乗り越えようとした結果、イスラエルの王となったダビデ王家は、一旦切り倒される(南ユダ王国の滅亡)という預言が語られています。ところでエッサイはダビデの父です。エッサイは取るに足らないひとりの羊飼いでした。エッサイの父はというとオベデ(=仕える者)です。そしてオベデの両親は、ボアズとルツでした。つまりエッサイを根として下支えしているのはボアズとルツに象徴される主を信頼する愛と出会いと言えます。

◆はからずも…ルツは、ユダヤ人から軽蔑されていた異邦人(モアブ人)でした。一方ボアズもその母は異邦人(カナン人)の遊女ラハブでした。しかし二人に共通するのは主に対する信頼でした。そのふたりが“はからずも”過越しとペンテコステの収穫の時期にベツレヘムで出会ったのです。人間的な策略ではなく、主の御手が、時と場と出会いを導かれたのです。

◆結び…先の見えない不安から手っ取り早く人間的な策略によって問題解決をしようとする私たちに対して、すでにイエス様が御手を働かせて、私たちの想像もしなかった時と場と出会いを“はからずも”備えて下さっています。私たちの人生史上、希望を絶えず更新して下さる真の“切り株”なるイエス様に祈ります。

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

Posted on 02/18/2024 at 09:04, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『残された者』(新約に引用されている旧約 その77)(2024.2.18)

たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。(イザヤ10章22節a) /(…)たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。(ローマ9章27節b)

◆はじめに…『残りものには福がある』ということわざがあります。人が取り残したものや、最後に残ったものの中には、思いがけず良いものがある、という意味だと辞書に記されてあります。つまり基本的には、残りもののほとんどすべては、何の価値も無いものとレッテルを貼られたものだということです。しかし主は、残りものにこそ目と心を注いでくださる方です。

◆残りの者(レムナント)…今日のテキストの主題は“残りの者”です。一般的に、残された者とは、信仰のあるイスラエルであり、メシアニック・ジュー(イエス様を信じるユダヤ人)、霊のイスラエル(すなわち今のキリスト教会)のように解釈されています。自分の自由意志、主体性によって信仰を持った霊的な人というようなニュアンスが含まれているように感じますが、本当にそうでしょうか? 残りの者とは、むしろ国や地域社会、世間、コミュニティから“取り残された者”ではないでしょうか(イザヤ4章3節、ルツ1章5節他参照)。

◆救われるのは、残された者…私たちは、主の力と愛について多くを学び、体験したにも関わらず主を見捨て、主の約束(「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」「ひとりの助け主を遣わす」)を信じるのではなく、人の助けや物質的な保証に頼ろうとします。私たちの自由意志は、主から離れる方向には働きますが、主に近づく方向には働きません。使徒パウロが「私は、本当にみじめな人間です! だれが救い出してくれるのでしょう!」(ローマ7章24節)と叫んだように、ひとり取り残され、黄泉に落ち込んでいくような逆境に追い込まれます。しかしこの時、御霊が私たちの身体を包み、滅びから救い出してくださいます。

◆救いと滅び…カルヴィンの二重予定説では、人間は初めから救われる人と滅びる人とに神によって予定されていると考えます。しかし神様が人間を滅びに定めたのではなく、死と滅びはアダムとエバの罪によって世に入って来たのです。ですから神様の御心は、その死と滅びから私たちを救い出そう、その一心です。そのためにこの世にイエス様を遣わされ、聖霊様を私たちの内に住まわせてくださったのです。

◆結び…今、取り残されたと感じているあなた、イエス様が救いの御手をあなたに向けて伸ばしておられます。

Posted on 02/11/2024 at 14:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『異邦人のガリラヤ=ヨナのしるし』(新約に引用されている旧約 その76)(2024.2.11)

(…)異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った(イザヤ9章1-2節) /(…)異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った (マタイ4章15-16節)

◆はじめに…先週の7日の還暦の誕生日、休暇を取って「下村湖人生家」を訪ねました。言わずもがな『次郎物語』の著者です。他に『論語物語』『青年の思索のために』『西行の眼』などの著作があります。どの著作もとても教育的示唆に富んだものです。

◆異邦人のガリラヤ…今日のテキストに“異邦人のガリラヤ”とあります。これはガリラヤ地方にアッシリヤ(首都ニネベ)が侵入して、人種的、宗教的混交が生じ、異邦の民として蔑まれる対象になっていたということです。しかし預言の成就としてイエス様はこの預言の7百年後、ガリラヤ人として生き、ガリラヤで福音を語り、癒し、愛の御業を行なわれました。マタイはこのイザヤ書9章1-2節をイエス様のガリラヤ宣教の開始宣言として引用しました(マタイの福音書4章14-16節)。そしてイエス様は福音宣教の第一声を語り出されました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(同17節) 。

◆ガリラヤから預言者は出ない?…イエス様の宣教は、ガリラヤ地方を中心に展開されました。イエス様は、幼少期から青年期までナザレで生活されていたことはご承知のことと思います。公生涯に入ってから郷里のナザレで宣教したことがありましたが、「この人(あいつ)は大工の息子じゃないか」(マタイ13章55節)と軽蔑され、また「キリストはガリラヤからは出ない」(ヨハネ7章41節)と。そして「ガリラヤから預言者は起こらない」(同52節)とも。ところが、②列王記14章25節に預言者ヨナの出身地がガテ・ヘフェルと記されてあり、ナザレの北東5キロに位置する町です。つまりヨナはガリラヤ出身の預言者です。

◆ヨナのしるし…イエス様は「預言者ヨナのしるし」(マタイ12章39節)と語っていますが、ヨナは主の御顔を避け、主のみこころに不愉快になって怒っています。また弟子のペテロのことを「バルヨナ(=ヨナの息子)」と呼んでいます(マタイ16章17節)。ペテロもガリラヤ生まれの漁師で、気性の激しい愚直な弟子でした。ペテロもイエス様のことばと振る舞いに対して抗議したり、逃げたりしました。

◆結び…ヨナ記の最後は問いかけで締めくくられています。「ニネベを惜しまないでいられようか」と。イエス様が「ましてあなたを惜しまないでいられようか」と語られる声が心に響いて来ないでしょうか。

Posted on 02/04/2024 at 18:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『頑迷預言のちインマヌエル預言』(新約に引用されている旧約 その75)(2024.2.4)

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7章14節) /「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる

(הָאֵ-ל עִמָּנוּ)、という意味である。) (マタイ1章23節)

◆はじめに…今週の7日で私は還暦(満六十歳)を迎えます。六十年前の2月7日は、ビートルズが初訪米した日。またその年は「東海道新幹線が開業」し「東京オリンピックが開催」された年です。戦後の経済復興が進み、加速度的に経済が成長していた年と言えます。六十年前、貧しかったけれども社会全体に明るさと活気があったことが当時の写真や映像から伺い知れます。それは、私たちの親世代の人々が自らの生活、そして家族を支えるために必死に働いて来た努力あってのことです。還暦を目前にして、六十年の年月の重みと、第二の人生の重責に圧倒されています。言えるのは“自らの力ではどうにもならない”ということです。

◆福音=インマヌエル(神、私たちと、共に)…さて、前回のイザヤ書6章9-10節は「頑迷預言(がんめいよげん)」と呼ばれ、その呼称の通り、心を迷わせ、頑なにする預言で、理解するのが難しいみことばでした。今日のテキストのイザヤ書7章14節は「インマヌエル預言」と呼ばれています。この聖句は聞き覚えのある個所だと思います。イエス様のご降誕を記念する待降節の際に必ずと言ってよいほど朗読されるからです。その意味で「イエス預言」と言い換えても問題ありません。この「インマヌエル(神、私たちと、共に)」は、「キリスト教の教えの中心を示す言葉、その内容説明である」と言われます。つまり福音の根幹です。

◆神…最初に神が存在し働かれます。ここで神の存在と働きの先行することが表明されています。この神が「私たち」と共にいるという神の約束ゆえに、「私たち」は、その事実を未だ知らない者が知るように呼びかけられている「私たち」として教会の壁を越えて、広い世界に向かって開かれていることを告げています。

◆私たちと…すでに見た通り、インマヌエルはイエスの「名」の言い換えですから「イエス様がわれらと共にいる」ことを表しています。約束の成就として私たちを罪から解放し、罪赦された新しい人として日々新しく創造して下さいます。

◆共に…イエス様の苦難、十字架、復活を通して、神様は私たちをご自分と和解させて下さいました。ゆえに神様はご自身のためでなく「私たちのための神」です。この和解の出来事に包まれて「私たちと共に」イエス様がいて下さいます

◆結び…イエス様が私たちと共におられ、日々創造され、永遠におられます。

〔毎日曜午前10時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

 

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