Archive for 6月, 2023
Posted on 06/24/2023 at 21:45, by matsumoto
主は私の羊飼い(ローイ=ヘブル語/ポイマイネイ=ギリシャ語)。私は、乏しいことがありません (詩篇23篇1節) /わたしは、良い牧者(ハーローエー=ヘブル語/ポイメーン=ギリシャ語)です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます(ヨハネ福音書10章11節参照)
◆はじめに…詩篇23篇ほど、キリスト者、ユダヤ教徒、そして他の宗教を信仰している人、さらに無宗教の人にいたるまで、多くの人に知られ、そして愛されている聖句は、他に無いのではないでしょうか? ところが、驚くべきことに、新約聖書に、この詩篇23篇の聖句は引用されていません。ただ、直接引用ではありませんが、今日のテキストで取り上げたヨハネ福音書10章11節において、イエス様がご自身の自己開示として“牧者(羊飼い)”だと明言されたみことばが刻まれていることは皆さんご存じだと思います。
◆主は私の羊飼い…「私たちって、相当、遊牧民族ね」と家内。イエス様が羊飼いですから、当然といえば当然です。羊なる私たちにとって、羊飼いの導きに従うこと、それがいちばん確かな歩みだということに間違いはありません。今、私たち夫婦が生きていること自体がその証しです。イエス様は「万軍の主」「王」として私たちから遠く離れて立つ、雲の上の存在としてではなく、弱い羊を牧する羊飼いとして、いつも私たちの近くにいてくださいます。主の声、主の眼差し、主の杖が間近にある安心安全は、他に比肩するものはありません。「アドナーイ ローイ」のわずか2文字のヘブル語に込められた告白のパワーには圧倒されます。
◆羊のために命を捨てるイエス様…詩篇22篇の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」とのみことばを十字架で叫ばれたイエス様。ご自身を「わたしは、良い(あわれみの)牧者(羊飼い)であり、羊の(命の)ために(自らの)命を捨てる」とご自身を啓示されました。イエス様は、羊飼いが百匹の羊のうち一匹の羊が迷ったら、九十九匹を残して一匹を見つけるまで(身の危険を顧みず=命を捨ててでも)捜すでしょう、と語られました。イエス様は群れを牧場に伏させ、水辺に導き、一人の命(名前を持った固有の命)を大切にされる方です。主イエス様は私の(皆さんお一人ひとりの)羊飼いです。その主が共におられることを心の底から信じられるならそれに優る幸いはありません。逆に言えば、それだけで充分です。欠乏はなく、恵みで満ち溢れます。羊飼い―羊の関係は盤石です。
◆結び…イエス様は、天国の門を開き、すべての人の帰りを待っておられます。天の御座に座っているだけでなく、身を乗り出して引き上げてくださいます。
Posted on 06/16/2023 at 21:27, by matsumoto
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも、(詩篇22篇1節) /三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27章46節)
◆はじめに…現在、詩篇が引用されている新約の箇所を続けて学んでいます。夕べの祈りの詩篇4篇、乳飲み子のホサナの詩篇8篇、揺るぎない主の支えの詩篇16篇、そして復活の調べなる主の御声の詩篇19篇、それぞれの詩篇から日々の慰めと励まし、力を得て一日一日を過ごしています。
◆十字架の七言…イエス様は十字架の横木を背負い、ゴルゴタの丘へ登り、手と足に釘を打たれ十字架にお掛かりになられました。十字架の上でイエス様は、七つの言葉を語られました。時系列で、①あなたの息子、あなたの母がいます=愛(ヨハネ19章26-27節)、②彼らをお赦しください=赦し(ルカ23章34節)、③きょう、パラダイスにいます=救い(同43節)、以上が人との関係におけることばです。そして④エリ、エリ、レマ、サバクタニ=絶望(マタイ27章46節)、⑤わたしは渇く=苦痛(ヨハネ19章28節)、⑥完了した=勝利(同28節)、⑦わが霊をゆだねます=信頼(信託)(ルカ23章46節)が、神との関係におけることばです。
◆イエス様の“喝(かつ)”…ただ七つのことばの他に、もう一言、八言目があります。“大声での叫び”です。この最期の絶叫の後、神殿の聖所と至聖所を仕切っている幕(厚みが手のひらの幅)が、上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタイ27章51節)。これにより年に一度、大祭司だけが入ることが許されていた至聖所(神の臨在の場所)への道が、何の制限もなく毎日、すべての人に開かれたのです。父なる愛の神との親密な、永遠の交わりへの道が開かれたのです。そしてイエス様は、“息を引き取られた”のです。一般的にこのことばは「死んだ」ことを意味するのですが、原語は“霊を解き放たれた”です。つまり霊が解放されて(死の束縛から)自由になった状態です。ところで禅宗の僧侶が、お経の最後や、座禅の際に「かーつ!」と言う叫び声を出すのを聞いたことがあるでしょうか? 「喝(かつ)」は、口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形の文字です。イエス様の最後の叫びは、この“喝(かつ)”に似ています。いや、真実の“喝”です。それを聞いたローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」(マルコ15章39節)と告白せずにはいられなかったのです。
◆結び…イエス様は、天国の門を開き、すべての人の帰りを待っておられます。
Posted on 06/10/2023 at 20:48, by matsumoto
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた(詩篇19篇4節) /でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ人への手紙10章18節)
◆はじめに…朝の通勤時、一日の業務の流れを頭の中でシュミレーションしながら車を走らせます。ふと気づくと、やや下向き加減で目の前の道路だけを見ています。そんな私に今日のテキストの詩篇19篇は “顔を上げて天と大空を見よ”と促します。そして業「務をこなすことが仕事ではなく、主の栄光を、業務に取り組む姿を通して顕す(告げる)ことではないですか?」と語りかけます。リビングバイブルは、詩篇19篇5-6節を「太陽はその場所から出て、結婚式の花婿のように晴れ晴れと、また、競技を前にした選手のように、意気揚々と大空を闊歩します」と記しています。このみことばに励まされ、職場に派遣されている使命(ミッション)を再認識し、顔を上げて仕事場へ向かう日々です。
◆沈黙の中(行間)にメッセージがある…今日のテキストの詩篇19篇とローマ書10章は神の啓示について記しています。それは“沈黙のメッセージ”と言えます。それは40代で聴力を失ったベートーベンが、静寂の世界のただ中にありつつ、心に鳴り響く音楽を、五線譜に音符(和音)を並べることで、不朽の名曲を後世に残したように、小さい私たち自身の心に響く福音(神のことば)に信頼して生きる生き様が、後世への遺産(証し)となると信じます。
◆全地に響き渡る声…ところで、詩篇19篇4節の「声」と訳されているヘブル語は、「和音」の語意があります。“心の琴線に触れる”という言い方がありますが、たとえ大きな音や声でなくても、ほんの世界の片隅で蚊の鳴くような声であっても、雑音にかき消されてしまうような弱い音であったとしても、心の琴線に触れるなら、響きとして伝わる。まさに福音がそのような音、声、ハーモニー、シンフォニーだと、パウロはローマ書10章18節で言っているのでしょう。
◆主の声は復活の調べ…「声」と日本語訳されているところは、ヘブル語で“קַוָּ֗ם”と表記します。マルコ5章41節の「タリタ クミ(少女よ、立ち上がれ)」の「クミ(立ち上がれ=復活せよ)」も同じ表記です。つまり“主の声は復活の調べ”と言っても良いでしょう。自然を通して、また、人を通して、そして聖書のみことばを通して、あるいは祈りや夢、黙想を通して、復活の調べなる主の声を聞くとき、私たちは、暗やみ、死の淵から再び立ち上がる活力(復活の力)を得ます。
◆結び…復活の主を信じる者は、誰一人、失望することはありません。
Posted on 06/03/2023 at 21:56, by matsumoto
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない(詩篇16篇8節) /「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は私が動かされないように、私の右におられるからである(使徒の働き2章25節)
◆はじめに…リハビリデイの現場で働いていますが、利用者さんの傍らに立って移動のサポートをする場面が多々あります。当然ながらサポートを必要とする利用者さんは、サポートを必要としない利用者さんと比べて、ADLが低下しています。しかし、支えがあれば残っている能力を使って、移動(活動)でき、さらにその人らしく自立した生活ができます。自立というより“共立”と言った方が良いかもしれません。仕事場では私自身、支える側ですが、日常生活では支えられる側です。島の皆さんのやさしさに支えられ、いつも主が共にいてくださり、日々を生きる力を与えられています。
◆ミクタム…今日のテキストの詩篇16篇の表題は「ダビデのミクタム」です。ミクタムというとすぐに連想するのはミクタムレコードではないでしようか。「神様を表現することが最高の芸術だという確信」「創造主を近く感じたことを賛美として“黄金の歌”を届けられたらと、昨年召された小坂忠さんが1978年に設立した日本初のゴスペル専門のレコード会社です。
◆キリストの福音…先週のテキストでは、幼子と乳飲み子の口には“力”と“賛美”があり、それは主に向かって叫ぶ“ホサナ!”だと。そして“ホサナ!”と主に向かって叫ぶことで、主の力が注がれて救われるのだと。それはペンテコステのとき最高潮に達し “異言”(天国の方言)として、全世界の共通言語、根源的なことばとして、すなわち乳飲み子が発する、強力な意志をもった“喃語(なんご)”として皆が話し出したのだと学びました。その後ペテロは、今回のテキスト詩篇16篇8-11節を引用しつつ、 ダビデの黄金の歌(ゴールデンソング)をキリストの福音(ゴッドスペル=ゴスペル)メッセージとして語ったのでした。「この方(イエス様)が死につながれていることなど、ありえない」「いのちの(木への)道を知らせてくださる」「聖霊を注がれたのだ」と。聖霊様はいつも私たちの傍ら(右)におられる方です。そして助言を与えて下さる方です。そしていのちの(木の)道を知らせて下さる方です。その方を創造主の右の座におられるイエス様が送って下さったのです。
◆結び…聖霊様の語られる御声に耳を傾け、日々の小さな歩みと、人生の重要な決断を導いていただけるのは、すでにエデン(ゆずりの地所)が回復されている揺るぎのない証しです。