Archive for 5月, 2022
Posted on 05/29/2022 at 18:31, by matsumoto
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(…)それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記1章27節、2章24節) /イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。」(マタイ福音書19章4、5節)
◆はじめに…先主日の礼拝の後、福岡の知人のところへ行き、いとすぎを梱包し、翌朝出荷、火曜日の夕方には教会に届きました。イタリヤのアッシジから持ち帰った、いとすぎの種が3メートル程の背丈にまで成長し、それが今いとすぎ教会の玄関に置かれていることに主の御心の麗しさを感じます。大小2本のいとすぎがお互い寄り添うように並んで立っている姿が何ともいとおしく思えます。
◆向かい合い、寄り添う者…本主日からは、新約聖書に引用されている旧約聖書をテキストとしてみことばに耳を傾けていきたいと思います。創造の主は、愛し、永遠の交わりを持つことを目的として人をご自身のかたち(=三位一体)に似せて造られました。当然、人自身も愛と交わりの存在です。ゆえに「人が、ひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2章18節)としてアダムとエバを造られました。「ふさわしい」とは“向かい合う者”という意味です。続く「結び合う」は“そばにいる”“寄り添う”という意味です。もちろん人は土から造られた肉的存在ゆえに、弱く頼りない存在です。それゆえに主に信頼し、主に導いてもらうことで平安に生きることができるのです。
◆結婚と離婚(、そして独身と)…この創世記のテキストをパリサイ人の試みに対する返答の中でイエス様が引用しています。パリサイ人の「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」(マタイ19章3節)という質問に対してイエス様は創世記の今日の箇所を引用した上で、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(同6節)と答えました。それに対してパリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して離別せよ、と命じたのですか」(同7節)と反論し、それに対してイエス様は「あなたがたの心がかたくななので許したのだ」(同8節)と。
◆結び…この世における現実の生活は複雑で絶えず変化しています。単純に善悪、正誤を判断することは不可能です。罪ある一人の人間として、過ちと失敗の中で「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されるイエス様の福音の光に内面を照らされて、主に造られた者同士、寄り添いながら生きていきたいと願います。
Posted on 05/23/2022 at 19:58, by matsumoto
彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる(イザヤ書66章24節) そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません(マルコ9章(44)、(46)、48節)
◆はじめに…今日、礼拝の後、福岡の知人のところへ行きます。というのは、その知人が鉢植えで種から育てた糸杉が2メートルを超えるまでに成長し、ふと私たちいとすぎ教会のことを思い出して、育った糸杉に最もふさわしい場所じゃないかと言うことで声を掛けて下さいました。それで今回、その糸杉を譲り受けるために出掛けることにしました。本物の糸杉のあるいとすぎ教会になります。
◆イザヤ書の結び…本主日でイザヤ書の学びは最後になります。最終章の66章からの学びになります。過去にイザヤ書66章の学びをしたことがありました。新会堂の起工式の翌主日2013年、9年前のことでした。『共に礼拝することを切望する私たちは、他人の不幸を喜ぶ者ではなく、不完全な者どうしが互いに和合して暮らす者(詩篇133篇1節、マルコ9章50節参照)です。そのための“教会”です。それも画一的なものでなく、多様な姿の教会(イザヤ66章20節参照)なのです。そんな教会のひとつとして、小さな“いとすぎ教会”がこの地に、主の許しのなかで存在しているのです。』と、そんなメッセージでした。今でもその思いはまったく揺らいではいないことを嬉しく思いますし、主に感謝します。
◆ゲヘナ(ヒノムの谷)の片隅で…今日のテキスト、イザヤ書の最終章の最終節66章24節をイエス様は引用しています。できれば聞きたくない、あるいは見たくない光景です。ゲヘナ(ヒノムの谷)は、エルサレムの南西に伸びる谷で、いわゆる“廃棄物処理場”でした。ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていました。また、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人を埋める場所でした。旧約聖書時代には、モレクの神への幼児犠牲が行われていました(②列王記23章10節「ヨシヤの宗教改革」参照)。1979年に、ヒンノムの谷の斜面の埋葬用洞くつで聖書本文が記された銀製の小さな巻き物2本が発見されました。その中には民数記 6章24-26節に記されている祝福のみことばが記されてありました。主は、私たちが目も耳も鼻も塞ぎたくなるような場所に近づき、呪いのことばではなく、祝福のことばをもって近づいて下さる方です。
◆結び…創造の主が私たちに祝福をもって近づいて下さっています。私たちも互いに祝福の祈りをもって互いに近づき、共に主の前に膝をかがめて礼拝する者として新しい一週間を過ごしていきたい、そう願っています。
Posted on 05/15/2022 at 19:29, by matsumoto
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65章17節) また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(ヨハネ黙示録21章1節)
◆はじめに…我が家の庭のバラが今、花盛りです。美しい花びら、芳しい香り。その一方で黒点病、ダニ、肥料過多等で葉っぱが変色したりして、一喜一憂しています。それでも新しい葉っぱが出、花芽が付き、次の開花に向けて健気に生きています。古くなった下葉は黄色くなって自ら落葉します。自ら落葉することで新しい葉に美しい花を咲かせる働きを託しています。バラを通して神様の創造の業を喜びつつ、いのちの尊さを学ばされています。
◆嫌なことは忘れない…人は、悲しかったことや苦しかったこと等、過去に経験した嫌な出来事は忘れません。これは私たちの脳が、嫌だった体験を繰り返さないように、詳しく情報を処理し次に備えようとするためです。つまり生きるためのリスク回避の手段なのです。しかしリスクを回避して生き延びるだけの人生だとしたら…。それこそ生きている意味がありません。では何のために神様は世界を創造し、人を創造したのでしょうか? そして今、過去と現在に、がんじがらめなっている私たちを、どのようにしようとお考えなのでしょうか?
◆楽しみ喜べ…神様は最初に天地創造された際、すべてをご覧になり「非常によかった(=心地よさで富んでいた/ヘブル語直訳)」(創世記1章31節)とおっしゃいました。しかし、その心地よさは、人の罪によって一転、不愉快な展開に。ルール違反、責任転嫁、そして殺人。そんな人間をあきらめることなく忍耐をもって今も関わり続けておられる主が、イザヤの預言のなかで「新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65章17節)と宣言し、「いついつまでも楽しみ喜べ(=極みまで歓喜し喜べ/ヘブル語直訳)」(同18節)、わたし(主)もあなた方を喜ぶ(同18-19節)、とおっしゃっています。主が創造してくださる新天新地は、花婿なる再臨のイエス様が花嫁なる私たちを神の家族として迎え入れてくださる神の家です(ヨハネ福音書14章2-3節参照)。この約束のみことばを確信するとき、もう人生を脅かすリスクを想定する必要はなくなります。過去の苦く辛い体験の束縛(呪縛)から解放してくれます。
◆結び…創造の主は、私たちがいのちの極みまで喜び楽しめるように、そして主ご自身、その喜ぶ私たちのいのちを喜ぶように、新しい天と新しい地の創造を確約してくださっています。
Posted on 05/08/2022 at 19:01, by matsumoto
神を待ち望む者のために、このようにして下さる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません(イザヤ書64章4節) 目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(①コリント2章9節)
- はじめに…ロシアのウクライナ侵略が始まって後、かのロシア人である文豪トルストイの書いた小説「戦争と平和」が売れていて、注文がほぼ二倍とのこと。小説には戦争の愚かさと平和の尊さが描かれています。今回の戦争を仕掛けたプーチン大統領自身、最も影響を受けた作品の一つに、この「戦争と平和」を挙げているとか…。どのように読んだら、ウクライナ侵略を“正義”とか“解放”と見なせるのか。一昨日の中日新聞の社説ではプーチン大統領は「戦争と平和」を“誤読”している、「プーチン大統領よ、今すぐ読み直せ」と書いています。
- 人の義(の衣)を着替える…人の義、私たちの義は“不潔な着物のよう”(イザヤ64章6節)だとイザヤは言います。それらは新しい衣服に着替え、清潔を保つ必要があります。端的に言えば“キリストを着る”ということです。それにはまず、自らが身にまとっているものが汚れているという自覚、つまり自分の義は、神の義の前には罪でしかない、正義を行なっているかのようでも、罪つくりな行いでしかないという意識が必要です。その自覚があって、新しい衣服に着替えるという動機が内側から生まれてきます。
- 敗北宣言…福音書に「長血をわずらった女」の記事があります(ルカ福音書8章43-48節他)。ルカは「だれにも直してもらえなかった」と、この長血という病が不治の病だとしるしています。医者だったルカにとっては自ら敗北宣言をしているようなものです。私にはできる、私がやったと勝利宣言することはカッコイイことですが、カッコよさよりも、主の前での誠実さ、謙虚さが大切だと、ルカは告げているのでしょう。それが“福音”だと。罪人でしかない、あるいは土の器でしかないことを率直に認める。そしてそのままの姿でイエス様に救いを求めて近づいていく。私たちが宣言するのは私たち自身の勝利宣言ではなく「主は勝利者なり」と、主の勝利宣言です。
- 結び…創造の主は、神を待ち望む者、神を愛する者を、主の目に最も尊い器として造り直してくださるお方です。なぜなら、私たち自身も知らない私たちの本質をご存じで、愛してくださり、輝かそうとしておられるからです。
Posted on 05/01/2022 at 17:53, by matsumoto
わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。(イザヤ書63章3節) その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(ヨハネ黙示録19章13節)
- はじめに…ロシアのウクライナ侵略戦争の難を逃れて日本にも700人超のウクライナの方たちが避難して来ています。長崎県の壱岐島に住む友人にフィリピン支援の件で連絡をした際、島にも20人の方たちが避難して来ていると聞きました。友人はこれまでも外国人技能実習生として来島している人たちのサポートをしていますが、孤軍奮闘しているようです。その活動を支えているのはイエス様への“祈り”です。
- ひとりで酒ぶねを踏む…今日のテキストはイザヤ書63章です。主の復讐(審判)と救い(贖い)がテーマです。はじめに壱岐の友人が孤軍奮闘していると言いましたが、主ご自身“ひとりで酒ぶねを踏む”方です。共に歩む者はありません。新約の視点から言えば、“ただおひとりで十字架を背負う”方です。その十字架は私たち一人ひとりが背負うべき十字架に他なりません。主を主として認めず、主のみこころに背き、他者を貶(おとし)め自分勝手な(自らを神とするような)道を歩んだ罪の代償として背負うべき私たちの十字架です。しかしそれに耐えうる人はひとりもないのです。ゆえにその罪をイエス様自らが負い、裁きを自らに下すことによって、私たちを救い、いのちを与えて下さいました。
- 世間(多数)と勇気…アップルの創業者、スティーブ・ジョブズ氏(故人)がスタンフォード大学の卒業式の式辞で「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気です」と述べました。私たちは何か新しいことを始める時、あるいは現状や課題に直面する時、世間の目を気にしたり、最初に周囲の理解や協力を求めようとします。それは孤立を恐れるからです。つまり勇気がないのです。知恵と力と勇気は主から来ます。主への祈りによって与えられます。
- 結び…ひとりで酒ぶねを踏まれる方、ただおひとり十字架を負われる方、主お一人が私たちの前に立たれるなら、私たちは孤立することなく、歩むべき道が照らされ、人や状況を恐れることなく勇気をもって進んでいくことができます。永遠のいのちを与えて下さるイエス様に感謝します。