Archive for 8月, 2020

Posted on 08/30/2020 at 18:13, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『私たちの生きがい』(イエス・キリストの生涯 その123)(2020.8.30)

私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。(テサロニケ人への手紙第1 3章2-3a節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…アメリカのウィスコンシン州で黒人の男性が警察官に背後から撃たれたことに対する抗議のため、一旦ボイコットを表明したテニスのツアー大会の準決勝に、大坂なおみ選手が28日、人種差別への抗議を表す「黒人の命は大切(Black Lives Matter)」という意味が書かれたTシャツを着て臨みました。黒人差別や障がい者差別、そしてコロナ罹患者への偏見、さらに信仰者に対する迫害と、憎悪の連鎖がこの世に、私たちの身近なところに存在し続けています。私たちの心の中にも巣食っていると言わざるを得ません。しかし主は、すべてご存じで、そんな私たちを見捨てず、愛を貫き、導いてくださいます。
  • 強め励まし…今日のみことばの“強め”という言葉は、ルカによる福音書9章51、52a節「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された」の御顔を“まっすぐ向けられ”と同じギリシア原語です。これはイエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムに向かう旅の始まりのみことばです。つまりサマリヤを北から南にまっすぐ縦断する旅、すなわち、否が応でもユダヤ人、サマリヤ人双方にとっての憎悪の対象、宿敵の相手と関わる旅です。イエス様はその試練の場に分け入って、十字架に向かってまっすぐ弟子たちを伴って歩んで行かれたのです。
  • ヤコブとヨハネ…サマリヤの町を通るにあたって、イエス様は先に弟子のヤコブとヨハネらを使いに遣わしました。当然、サマリヤ人はイエス様一行を拒否しました。それに対してヤコブとヨハネは「焼き滅ぼしましょうか」(ルカ福音書9章54節)とイエス様に進言しています。ユダヤ人としての純潔を汚したサマリヤ人に対する歴史的な憎悪の感情が支配している弟子たちを、イエス様は「戒められた」(同55節)とみことばは伝えています。そして行く先々で「平安があるように」(ルカ福音書10章5節)と祝福を宣言するように勧めています。
  • 結び…行き過ぎた義憤に囚われず、また、人におもねることなく、出会う人々の平安を祈る、イエス様のいのちのみことばを人生の軸に生きる一人ひとりであるよう祈ります。

《追記》

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Posted on 08/23/2020 at 15:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『福音だけでなく、いのちまで』(イエス・キリストの生涯 その122)(2020.8.23)

あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(テサロニケ人への手紙第1 2章8節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…昨日、デイサービスの帰りの送迎の時、激しい雷雨に見舞われました。送迎車に乗っていたFさんは雷鳴が轟くと「わー怖い」と声をあげていました。それだけ聞くと“雷の怖い子供のような可愛らしいおばあちゃん”といった感じですが、実はその昔、ご主人と山へ草刈りに出かけ、大きな杉の木の下草を刈っている時に、雷がその杉の木に落ちて、その衝撃で体ごと跳ね飛ばされたとのことでした。その強烈な体験が80歳を超える年齢になっても消えることなく心に深く刻まれていて、雷の音が鳴るとその時のことが思い出されるのです。雷を伴ったゲリラ豪雨は30分ほどで止み、その後しばらく大きな虹が空に架かっていました。
  • 光に打たれたパウロ…クリスチャン(この道の者)迫害の急先鋒だったパウロは、ダマスコ途上で天からの強烈な光に打たれ、地に倒れ、イエス様の声を聞く衝撃的な体験をし、それ以来、福音を伝える使徒に変容しました(使徒の働き9章、22章)。私たちもパウロのように劇的な回心とはいわずとも、大なり小なり、人生のターニングポイント(あるいは価値観の転換)になるような体験があるのではないかと思います。私の場合、阪神淡路大震災を直接体験して、その体験がきっかけになり献身に導かれたことが最も大きな出来事です(災厄は神の審きだと断定、断罪するは短絡的過ぎます)。人生の目的が、お金を稼ぐことや、社会的地位を得ることから、主イエス様の生き様に倣うこと、隣人を愛すること、天の御国の実在を確信して生きることへと変えられました。その思いは歳を重ねるにつれてますます確かさが深くなってきます。
  • 福音だけでなく、いのちまで…パウロは、テサロニケ教会の信徒に対して「福音だけでなく、いのちまでも、喜んで与えたい」(テサロニケ2章8節)と言い、信徒一人ひとりのことを自分にとっての「望み、喜び、誇り」(同19節)だと言っています。それほどまでに出会った一人ひとりのことを大切に思い、愛して接しました。つまりパウロは、与える人生、手放す人生のだいご味を味わっていたと言えるのではないでしょうか。
  • 結び…主が御心によって出会わせて下さった一人ひとりと、ときに母のように、ときに父のように、そしてキリストの家族として互いを大切にし、愛を持って接し、イエス様の愛(与え尽くす愛)で万物が満ちますように祈ります。

《追記》

zoom参加を希望される方は10時20分-30分の間に

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Posted on 08/16/2020 at 15:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『みことばのエピセンター』(イエス・キリストの生涯 その121)(2020.8.16)

主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。(テサロニケ人への手紙第1 1章8節)

  • はじめに…新型コロナウイルスの感染は依然、拡大し続けています。その中で“東京のエピセンター化”ということが言われています。エピセンターとは、「感染者・とくに無症状の感染者が集まり、感染が持続的に集積する地域」のことです。もともとは地震の際に使用される言葉で、震源の真上の地点「震央」のことです。最も影響の大きいと言われている場所のことです。
  • 再臨待望…テサロニケ教会は、パウロの第二伝道旅行の際、わずかに3週間の宣教によって創設された教会でした(使徒の働き17章2節参照)。たった3週間しか宣教活動ができなかったのは、ユダヤ人たちによる迫害があったからでした。パウロたちは後ろ髪を引かれる思いでテサロニケの地を離れざるを得ませんでした。それでも宣教の成果は大きく、模範的な教会に成長しました。ただテサロニケ教会の信徒の大多数は異邦人(ギリシヤ人)でした。ゆえにギリシヤ的な生活環境に取り囲まれていました。ですから容易にギリシヤ的な思考、振る舞いへと“先祖返り”してしまう危険性があり、事実、そうなっていったのです。徐々に中心軸がずれ、歪んだりしてきたようで、それを元通りに調整するために書かれたのがこのテサロニケ人への手紙です。第1章はその中心軸が何だったのかが書かれています。それは“再臨”の待望です。
  • 生けるまとこの神への立ち返り…テサロニケの人々は、パウロの第二伝道旅行における宣教を聞き、生命のない、誤りの神、すなわち偶像から、生けるまことの神の実在と、その愛と目的(イエス様が私たちを新天新地に迎え入れ永遠に主との霊的な交わりのなかで生きること)を悟り、立ち返ったのです。すなわち救い主イエス様の再臨を確信し、その確信ゆえに忍耐し労苦し、苦難のなかにあっても聖霊による喜びで生き生きと輝いて生きていたのです。その生き様がテサロニケの地から四方八方へ、その信仰が響き渡ったのです。
  • 聖なる者として…それは神に愛され、神に選ばれている生き方、すなわち“聖別”された生き方でした。世や偶像に感化されない生き方、たとえれば海の中を自由に泳ぐ魚は、塩気を内に含まないのと同様です。その背後にはイエス様ご自身の私たちに対するとりなしの祈りがあります。「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを守ってください」(ヨハネ福音書17章11節)。
  • 結び…聖なる御名で守って下さっているイエス様に感謝します。
Posted on 08/09/2020 at 15:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『常祷・援祷・苦祷』(イエス・キリストの生涯 その120)(2020.8.9)

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4章2節)

  • はじめに…原爆が投下されてすぐに救護活動に参加した医学生の濱清(はま きよし・故人)氏は、当時を回想して次のように述べています。「(救護活動を行った)山里地区は浦上天主堂に近いキリシタンの里で、負傷者の多くはカトリック信者の方々でした。(…)全身に真白に軟膏を塗られ、ほとんど身動きも出来ないほど衰弱しきった人たちが、夕方になるといっせいに身を起こしてタベの祈りを捧げる光景がうす暗い病室の中に見られました。そうしてその人たちも2~3日の間につぎつぎに死んでいきました。言葉に言い表しようのない哀しみと、この人たちをこのような残酷な目に会わせることを許し、しかもなお祈りの対象となっている彼らの神に対し深い怒りを感じたのを記憶しております。(…)あの祈りの姿に、すべてを奪われた人間に遺されたただ一つの尊厳の姿を見たのかもしれない(人間の犯した罪に対する謝罪の祈り(とりなし)だったのではないか)と思い至ったのは年月を経てからのことでした。」
  • 常祷…パウロはコロサイの教会の人たちに「たゆみなく祈りなさい」(コロサイ4章2節)と勧めています。“常に祈れ”ということです。祈りは“霊の呼吸”です。祈りが途絶えるとき、私たちの霊は窒息し、死んでしまいます。しかも“感謝をもって祈れ”と。要求ばかりの祈りをしていないか、問われます。
  • 援祷…また、「私たちのためにも祈ってください」(同3節)と、祈りの応援を要請しています。私たち自身の祈りと隣人の祈りが合わさることで、キリストの奥義、教会の奥義の門が開かれるのです。奥義とはユダヤ人と異邦人がともに救いに与るということです。開いてくださるのは主ご自身です。
  • 苦祷…そして「エパフラスが、(…)あなたがたのために祈りに励んでいます」(同12節)と、パウロは同労の祈りの働きを明らかにしています。エパフラスはコロサイ教会の人たちの信仰と愛をパウロに伝えました(同1章7-8節)。“励む”は“力を尽くす”“苦闘する”という意味です。“苦祷”する力は自力ではなく「うちに力強く働くキリストの力」(同29節)です。あの被爆者の尊厳を保ち、夕べの祈りに導いた、主の力です。
  • 結び…私たち一人ひとりを愛の帯でしっかり結び、それぞれの場所にあって、常祷、援祷、苦祷しつつ、平和の主なるイエス様の身体として、日々新しく成長させて下さる全能の主に感謝します。
Posted on 08/02/2020 at 18:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『上にあるもの』(イエス・キリストの生涯 その119)(2020.8.2)

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ人への手紙3章1-2節)

  • はじめに…先週、図書館で本を借りて来て読んでいるとお話しました。その内の1冊クローニン著『天国の鍵』を読み終えました。自らの今日までの牧会の歩みと重ね合わせながら読み進めました。主人公の牧者としての在り方(キリスト教の形骸化した、あるいは律法化した教理に囚われない生き方など)に共感する部分が多くありました。
  • 上にあるものを思う…今日のテキストはコロサイ人への手紙3章です。パウロの書簡の特徴は、前半は教理について、後半は実践についての内容が記されていることです。3章からは実践部分になります。その冒頭部分で「上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」とパウロは勧めています。
  • 人間…ところで“人間”はギリシア語で“アンスローポス”です。語意は“上に顔を向ける者”という意味です。人間的な視点から言えば、目標を目指し、理想を追求し、希望を抱く者と言ってもいいでしょう。ところが、最初の人間、エバとアダムは、蛇(サタン)の誘惑のことばによって、食べてならいと聞かされていた目の前に麗しく実っていた善悪の知識の木の果実を取って食べました(創世記3章)。「もっと賢くなりたい」「神(の子)のようになりたい」という高い目標、理想、そして希望を、強引に自らの手元へ引き寄せ、貪欲、野望に変質してしまったのです。目標、理想、希望は奪うものではなく求めるものであって、叶うものなのです。与えられ、見出され、開かれるものです。
  • あわれみの主…そんな自己中心で自分勝手な人間に対して、創造主は決して諦めません。探し求めて御声をかけてくださいます。「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)と。そして罪、咎、過ちを隠そうとする私たちに対して、強引にはぎ取って公に晒(さら)すのではなく、反対に“皮の衣”を着せてくださり、生かしてくださる方です(同21節)。皮の衣は、十字架で肉を裂かれ、血を流された贖い主イエス様の予表です。その主が天から降って来られ、「あなたはどこにいるのか」と御声をかけ、懐(ふところ)に招いておられます。上にあるもの、それは尽きることのない主の愛です。
  • 結び…私たちに対する愛ゆえに十字架に掛かられ、救いの御業を成就してくださった主に、栄光がありますように。
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