Posted on 04/16/2017 at 19:31, by matsumoto
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。(ヨハネ福音書21章5-6節)
- はじめに…私たちの最初の赴任地は長崎県の壱岐の島の小さな教会でした。当然、財政的には貧しく、私は、ふたつのアルバイトを掛け持ちして生活費の不足分を補っていました。ひとつは新聞社での校正、もうひとつは知的障がい者の授産施設の送迎の仕事でした。その送迎のとき、助手席に乗った青年が、私が車のダッシュボードの載せていた聖書を見て、「弁当箱ですか?」と尋ねました。確かにそうです。
- みことばで満ちる…ペテロたちは、失意落胆のなかで、再び網を手に取り、漁に出かけました。しかし、何も取れませんでした。そのペテロたちにイエス様は「食べる物がありませんね」「舟の右に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」(ヨハネ福音書21章5、6節)と御声を掛けられました。すると153匹の魚が獲れた、そう聖書は記しています。復活のイエス様のない生活は、虚しいものです。しかし復活のイエス様を見出した生活(というよりむしろ復活のイエス様に見出された生活)は、恵みで満ちます。復活のイエス様は、私たちの歩みを見つめ、御声を掛けてくださり、恵みで満たしてくださいます。
- 再召命…そして復活のイエス様は、3度「そんな人は知らない」と否んだペテロに対して、3度「あなたはわたしを愛しますか?」と尋ねられ、「わたしの羊を飼い(牧し)なさい」と、再び召命の御声を掛けられました。復活のイエス様は、私たちの取り返しのつかない失敗を責められることなく、再出発のための使命を与えてくださいます。第1の使命は、私たちが主ご自身を愛することです。
- 結び…2017年のイースター。復活の主がみなさんお一人ひとりに再出発のための新たな使命を与えてくださっています。
Posted on 04/09/2017 at 19:44, by matsumoto
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
(マタイによる福音書27章50節・ヨハネによる福音書19章30節参照)
- はじめに…私たちは、日々の暮らしの中で、知らずしらずのうちに身体が緊張し、胸が縮こまり、精神的・霊的視野が狭くなっています。そんなとき、数時間でも日常から少し離れ、小高い山を見上げるだけでもリフレッシュできます。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121篇1-2節)
- 十字架の七言…さて、今週は“受難週”です。今しばらくのとき、ゴルゴタの丘を見上げ、十字架のイエス様を仰ぎ、イエス様の語られた十字架のことばに耳を傾け、みことばの奥義を聞きたいと願っています。イエス様は十字架で七つのことばを語られました。①父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、 自分でわからずにいるのです(ルカ23章34節)、②まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイス(=ヘブル語訳でエデンの園)にいます(同43節)、③女の方、そこにあなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます(ヨハネ19章26節)、④わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27章46節)、⑤わたしは渇く(ヨハネ19章28節)、⑥完了した(同30節)、⑦父よ。わが霊を御手にゆだねます(ルカ23章46節)
- もう一言…実は七つのことばの他に、もう一言あります。今日のテキストにあるように、“大声での叫び”です。この最期の絶叫の後、神殿の聖所と至聖所を仕切っている幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタイ27章51節)。年に一度、大祭司だけが入ることが許されていた至聖所(神の臨在の場所)への道が、すべての人に開かれたのです。父なる愛の神との親密な、永遠の交わりへの道が開かれたのです。そしてイエス様は、“息を引き取られた”のです。一般的にこのことばは「死んだ」ことを意味するのですが、原語は“霊を解き放たれた”です。つまり霊が解放されて(死の束縛から)自由になった状態です。
- エデンの園の復興…ゴルゴタ(がい骨)と呼ばれる死の丘が、十字架のイエス様によって祝福の源であるエデンの園の復興の歴史のスタートとなったのです。それは主に対する“ゆだね”から始まります。
- 結び…握りしめているものを手離して霊の解放を味わう一週間となりますように。
Posted on 03/26/2017 at 15:08, by matsumoto
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ福音書12章24節)
- はじめに…先週の水曜日、突然のことでしたが、葬儀告別式の司式のために大阪に出かけました。幸いなことに、この日はわたしの仕事の休日だったので、心置きなく出かけられました。すべては主が整えてくださったのです。ハレルヤ。
- 公生涯最後の宣教…さて、今日のテキストは、過越の祭りの5日前の出来事です(ヨハネ12章1、12節)。この日、イエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。人々はしゅろ(=なつめやし)の木の枝を取って、イエス様を出迎えました。そこに何人かのギリシヤ人もいました(同20節)。そこでイエス様は、公生涯最後のメッセージを語り始められました。
- 一粒の麦、地に落ちて…「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(同24節)。このみことばを告別式のお祈りとしました。今回、天に召された姉妹の最後の数年間は、何とも言葉では言い表せないほど悲惨なものでした。人としての扱いをされず、人としての尊厳を無視され続けたのです。それは姉妹ひとりだけの出来事ではなく、その背後に何千何百という人たちが、同様の苦しみに遭っているであろうからです。イエス様の受難の出来事がそこにあります。
- わたしの心は騒いでいる…「一粒の麦、地に落ちて…」と語ったイエス様は、平然と語ったのではありませんでした。率直に心の内なる動揺する思いを口にされました。「わたしの心は騒いでいる。何と言ったらよいのか。『父よ、この時からわたしをお救い下さい』」(同27節別訳)。イエス様は、神学的、倫理的に正しい解答をされたのではなく、憤り、動揺し、身悶えして、正直に渦巻く思いを天の父に向けました。“騒いでいる”は、詩篇6篇2,3節の“恐れおののいている”という言葉と同じです。
- 天から声が…すると、天から声が聞こえ、ある人には雷(神鳴り!?)のように、またある人には御使いの声のように聞こえました。
- 結び…新しい週、皆さん一人ひとりの心の動揺を、主が受け止めてくださり、御使いを通して御声を掛けてくださいます。
Posted on 03/19/2017 at 21:09, by matsumoto
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ福音書12章3節)
- はじめに…先週、職場で認知症と、ICF(国際生活機能分類)の概念についての学びがありました。3事業所のうちのひとつの事業所は“認知症にやさしいケア”ということを特徴にしていますが、目指すべきは“認知症がやさしい社会(介護者)を創る”ということではないか、そんな思いを抱きました。現状(情報)をどう解釈するかで、生き方、関わり方がまったく違ってくる訳です。
- 過越の祭りの6日前…さて、今日のテキストは、過越の祭りの6日前の出来事です(ヨハネ12章1節)。先週は祭りの巡礼者が誤って墓や死体に触れて身を汚して祭りに参加できなくなることを防止するために、祭りの1カ月前には墓を白く塗って備えをするということを学びました。同様に、祭りを目前にして会計係だったユダは、準備のためにいろいろと算段を巡らしていたことでしょう。
- 何て無駄なことを…そのユダをはじめとするイエス様の弟子たちの目の前で、マリヤがナルドの香油300グラムを惜しげもなくイエス様に注いだのです。弟子たちは「なぜ、貧しい人に施さなかったのか」「何のために、こんなむだなことをするのか」(ヨハネ12章5節、マタイ26章8節)と憤慨しました。
- 埋葬の準備をしてくれた…その弟子たちの責めに対して、イエス様は「わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」(ヨハネ12章12節)と、マリヤの行為を解釈(意味づけ)されました。当時のユダヤの若い女性は、新婚に備えて香油を準備していました。その貴重な香油をマリヤはすべてイエス様に注いだのです。大切なものを自分のためでもなく、他者への施しのためでもなく、時期を逸することなくイエス様のために用いたのです。その愛の行為が香りとなって部屋いっぱいに満ちました。
- 王・祭司・花婿なる主…その後、イエス様はエルサレムに入城され、群衆は「ホサナ! イスラエルの王」(ヨハネ12章13節)と叫びました。そしてイエス様は十字架で「完了した(花嫁になった/筆者私訳)」(ヨハネ19章30節)と言われ、霊を渡されました。イエス様は、十字架のあがないの愛で、すなわち花婿が花嫁を愛する愛を貫徹されたのです。(※ヘブル語で「完了した」と「花嫁」は同じ語根「カーラー」から成っている)
- 結び…新しい週、皆さん一人ひとりの在り方を花婿の花嫁に対する愛のまなざしを持って接してくださる主がおられます。
Posted on 03/12/2017 at 19:57, by matsumoto
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。(ヨハネ黙示録12章6節)
- はじめに…今日は満月です。どうぞ今晩、夜空を見上げて見てください。次の満月の夜が「過越しの祭」(出エジプト12章参照)、その後に来る主日(日曜日)がイースター(4月16日)となります。つまり過越しの祭りのちょうど1カ月前ということになります。
- いじめ…昨日は「11」東日本大震災・福島第一原発事故から6年で、全国各地で追悼の集会が開催されたり、メディアで特集が組まれたりしました。少しずつ復興しつつあるとはいえ、今なお避難生活を余儀なくされている12万人超の人たちがおられます。しかし避難者に対する対応は極めて冷たいのが現実。「放射能がうつる」「帰れはいいじゃん」「賠償金もらってるんだろう」など、子ども達のいじめは深刻です。「いじめはね こころにきずが のこるんだ」。これは孫の作です。
- 世の終わりの前兆…イエス様は、世の終わり(終末)には、地震が起こり、偽預言者が出て、人々の愛が冷たくなると語られました(マタイ24章参照)。また当時の民衆のリーダーたちに対し「白く塗った墓」(同23章27節)と言って、叱責しました。外見は美しく立派に見えるが、内心は汚れている、偽善と不法で満ちていると。
- 白く塗った墓…ユダヤ人の墓は、毎年アダルの月の十五日(過越しの祭の1カ月前)に、石灰で白く塗る習慣があったと言われています。これは、人が知らずに墓に触れて身を汚すことのないようにするためでした。身が汚れると過越しの祭に参加できなくなるからです。
- ラザロの墓…しかしイエス様は、過越しの祭に参加するために身の汚れを避けることが第一のことではなく、一人の人の尊厳こそが最も大切だということを、身を持って示されました。過越しの祭の前、ラザロの葬られている墓へ近づき、居合わせた人々に墓の入り口の石に触れさせ、ラザロの包帯をほどかせました。汚れを避けることではなく、イエス様のみことばに応答して汚れを乗り越える(共に生きる)ことが、真実の過越しなのです。
- 結び…新しい週、イエス様の御声に応答し、出会う隣人の“内なる聖所”(神によって備えられた場所)に近づく皆さんであるよう、祈ります。
|