Posted on 10/22/2017 at 14:13, by matsumoto
家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。(詩篇118篇22節)
- はじめに…衆院選挙と台風21号(人と自然)の動向に関心が集中してしまいがちですが、少し内なる幕屋の深みに霊性を向けたいと思います。人や君主に信頼するに勝って、主が信仰者にとっての唯一の避け所であり砦です。
- 聖書(みことば)の中心…以前、聖書の中心は詩篇118篇だと言いました。私にとって、その確信はますます堅固なものになっています。もちろん、みことばに優劣はありません。聖書の、どのみことばを取っても、重要さに変わりはありません。みことばは、信仰者にとって、人生の大黒柱であり、要(かなめ)です。前回は「ホレブの岩」が主題でしたから、今回は「捨てた石」を主題に取り上げます。
- 家を建てる者…「家を建てる者」と訳されている原語は“ハボニーム”で「建てる者たち」で、①家を建てる者、②町を再建する者、③国を復興する者、と多様な意味を含んでいますが、ざっくり言えば人々の生活(暮らし)を再興する働きを担う者と言って良いかと思います。
- 捨て石…しかし、そのような有益な働きをする者によって“価値なし”として捨てられる石(者)もあると言うのです。この「捨てる」というのは単に事務的ではなく、もっと感情的な意味合いがあることばで、“拒む、嫌がる、忌み嫌う”というニュアンスがあります。存在自体が邪魔、一刻も早く目の前から遠ざけたいという感じです。
- 礎の石…ところが、その嫌われ者が最も重要な位置になければならない、そう伝えています。イエス様ご自身が、このみことばを語られています(マタイ21章42節)。私たち自身、心の奥深いところで忌み嫌っている人がないか、つまり、嫌悪している人の中におられるイエス様を排除しようとする感情が働いていないか、自己吟味する必要があるでしょう。と言っても私たちには“相性”というものもあることを否定はできません。イエス様を礎の石としてしっかり内なる幕屋の基礎に据えて、キリストのからだとして互いに組み合わされ成長させて頂ければ幸いです。これは私たちの努力ではなく主ご自身の救いの御業です。
- 結び…主イエス様が私たちの霊、たましい、からだの救いを成し遂げてくださいますように。
Posted on 10/16/2017 at 21:51, by matsumoto
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(出エジプト記17章6節)
- はじめに…先週、オープンして間もない「イケヤ長久手店」へ行きました。何とか駐車場に車を止めることもでき店内へ。はじめのうちはゆっくり家具を見ながら店内を歩いていましたが、だんだんとお客さんの人数が増え、人ごみをを分けながら前に進むような状態に。そして疲れと空腹感が溜まって来て、気持ちの余裕がなくなって来ました。それは私たちだけでなく、ある外国人の女性のお客さんはスタッフに「出口はどこっ!」と怒気を含んだ声で尋ねていました。
- 荒野の旅路…モーセ率いる出エジプトのイスラエルの民も、主の導きと奇蹟の連続で意気揚々…。しかしだんだん雲行きかが怪しくなり、あちこちから不平不満がモーセに向けられるように。水が苦い、エジプトの肉鍋が恋しい…。死んだ方がまし…。そのような民の要求に主はマナを与え、うずらを与えられました。しかし環境の厳しい荒野の旅路。飲み水の確保ができなくなってしまいました。「なぜエジプトから連れ出したのだ! 死なせる気か!」とモーセを責める民。
- 岩を打つ…窮地のモーセに対して主は、「ホレブの岩の上に立って、岩を打て」とみことばを告げられました。モーセが岩を杖で打つと、その岩から水が(大量に)溢れだしたのです。“岩”はイエス様の型だと、使徒パウロは語っています(Ⅰコリント10章4節参照)。渇きがいやされたと思いきや、今度は敵(アマレク人)の襲来。モーセの後継者ヨシュアが戦いの先頭に立ち、モーセは手を上げてとりなしの祈りを続け、結果、勝利に導かれました(出エジプト17章8-16節)。これは十字架のイエス様の型です。
- 十字架による贖い…イエス様はただ一人、すべての人の罪を背負い、十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げて下さいました。血を流され、私たちの罪を取り除いて下さいました。再び来られる時は、まったき救いのために来られると、聖書は語っています(ヘブル9章25-28節)。
- 結び…信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないで、愛によって働く信仰と希望に生きる皆さんお一人ひとりであるよう、祈ります。
Posted on 10/08/2017 at 16:03, by matsumoto
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。(ヨハネ福音書7章37節)
- はじめに…不穏な政治の動きに対抗するように、各種ノーベル賞の発表がありました。平和賞はICAN (核兵器廃絶国際キャンペーン)、文学賞はカズオ・イシグロ氏に。イシグロ氏は20代の頃にはホームレス支援活動をしていたこともあったり、「弱者への優しい視点」を持っていたと、従妹の正木うらら氏(神戸ルーテル神学校ギリシャ語講師)は述べています(毎日新聞)。また地元メディアも取材に対して「物語の語り方によっては、人種や階級や民族性といったバリアを超えられるはずだと、僕は常に信じてきた」とイシグロ氏は答えています。
- 主との出会い…イシグロ氏は長崎出身で5歳のとき父の仕事の関係でイギリスへ移住。「教会の聖歌隊に入り、英語を学び、音楽を学んだ」と地元の教会の人々。教会との出会い、そしてイエス様との出会いが、その後の人生の支柱になっていることは疑いの余地はないでしょう。そして文学を通して、人類のこの世界の縛りからの解放の働きを続けているのでしょう。
- 大いなる日…仮庵の祭は7日間行われる祭ですが、1日1本ずつ川辺から柳の木を切って、祭壇の西南に立てました(柳は1日で枯れてしまいます)。そして最終日に、新しく立てた柳の木にシロアムの池から汲んで来た水とぶどう酒を注いだのです。そこは祭司の庭で普段は祭司の他は誰も入ることができませんが、この日だけはイスラエル巡礼者、女性、子どもも入って参加することができたのです。今、まさに枯れようとしている柳(=別名・ホサナ)を前にして人々は「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください」(詩篇118篇25節)と叫んだのです。そして、まさにその時、その場所でイエス様が「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7章37節)と叫ばれたのです。
- 旧約と新約の中心点…不思議なことですが、旧約の最初の書、創世記1章から2章、3章と数え、また新約の最後の書、ヨハネ黙示録22章から21章、20章と数えていくと、あたかも山の両側からトンネルを掘っていき、中央で出会うように詩篇118篇で出会います。もっと言えば詩篇118篇15節「喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある」とのみことばが聖書の中心になります。
- 結び…救いと喜び、いのちの宝は、主を求める皆さんのただ中にあります。
Posted on 10/02/2017 at 21:38, by matsumoto
見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4章18節)
- はじめに…先週、私たちの知り合いのTさん(享年70)が、11年間の闘病生活の末、天に召されました。関わりは一昨年のアドベント(待降節)の時期からでしたが、見事な地上での生涯の最期でした。今日のみことばは、Tさんの遺して逝ったみことばのうちのひとつです。(他に、マタイ6章30節、ローマ14章8節、詩篇23篇1-4節)
- 平和の祈り…みことばとともに、好きな言葉として「フランシスコの平和の祈り」を挙げていました。わたしをあなたの平和の道具(channel=導管・水路・溝)としてお使いください/憎しみのあるところに愛を/いさかいのあるところにゆるしを/分裂のあるところに一致を/疑惑のあるところに信仰を/誤っているところに真理を/絶望のあるところに希望を/闇に光を/悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください/慰められるよりは慰めることを/理解されるよりは理解することを/愛されるよりは愛することをわたしが求めますように/わたしたちは与えるから受け/ゆるすからゆるされ/自分を捨てて死に/永遠のいのちをいただくのですから
- 大贖罪日、仮庵の祭…ユダヤ教では、モーセの幕屋の時代から大祭司が1年に1度、ユダヤ暦の第7月(チスリ)の10日、贖いのためにほふった動物の血を携えて、すべての民の罪の贖いを主(創造主なる神様)に祈りました。その日、ユダヤの民は皆、断食をして贖いを大祭司に託しました。そしてその5日後の15日、つまり十五夜の満月の日(今年は10月4日の日没にあたる)、仮庵の祭が行なわれました。祭に参加できることは、自分が神様から選ばれた選民としてユダヤ民族の一員であるというアイデンティティを確認する機会でした。ただ罪人の烙印を押された(罪人扱いされた)者はこれに加わることができませんでした。これは創造主なる神の御心とは違っていたのです。その縄目を解いた方が主イエス様でした。まさに“平和の主”“平和の道具”として自らを父なる神に委ね切り、聖霊を私たち一人ひとりの内側に注がれたのです。
- 結び…新しい月、主から新しいゆるがない霊(詩篇51篇10節)を頂き、平和を創りだす者(マタイ5章9節)、闇を照らす者として生きることができるよう、祈ります。
Posted on 09/24/2017 at 20:12, by matsumoto
イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。(レビ記23章24節)
- はじめに…「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、暑かった夏も過ぎ去り、めっきり秋らしくなりました。昨日は“秋分の日”で真東から日が昇り真西へ沈み、昼の長さと夜の長さが同じになり、もっとも夜の長い冬至に向かって一日約1分ずつ日が短くなっていきます。秋分の日をはさんで1週間が彼岸ですが、この時期の新月(月が欠けて見えない夜)の日が“ローシュ・ハシャナー(年の頭)”、ユダヤ暦で新年になります。
- 天地創造の日…日本においても月ごとの名称があるようにユダヤ暦においても月の名称があり、新年の第七月は「ティシュリ」です。創世記の1章1節は「ベレシート(はじめに)」というみことばで始まり、天地創造の出来事が記されていますが、この文字の配列を変えると「エベティシュリ(ティシュリの第一日)」となることから、天地創造はティシュリの第一日に始まったとユダヤ教のラビたちによって伝承されています。天地創造が「光よ。あれ。」(創世記1章3節)というみことばによって始められたことを、新年の雄羊のラッパの音が想い起させ、また、数々の罪、過ちの記憶をも想い起させます。そのようにしてみことばの権威に対して畏怖の思いをいだきます。新年礼拝後、会堂から出る際に、「あなたは生命の書に記されていますか」と互いにあいさつを交わすそうです。このようにして自己吟味のときを過ごします。
- 良い年になるように…その後、イスラエルでは各家庭において、新年が良い年(甘い年)になるようにということで、リンゴにはちみつをつけて食べます。また、翌日の礼拝後、水辺や池に出かけ、ポケットの中のパンくずなどのごみ(罪の象徴)を投げ捨てます。池の中には魚が泳いでいるのですが、魚は目を閉じないことから、いつも神様が見守っておられ、その神様に信頼して生きるという認識を新たにします。わたしたちキリスト者にとって魚はイエス様を象徴していますから、イエス様がわたしたちの罪を贖い、絶えず見守っていてくださるので百パーセント信頼して平安な気持ちで日々過ごすことができます。
- 結び…贖い主であり、救い主であるイエス様に百%信頼して過ごす皆さんでありますように。
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