Posted on 10/10/2021 at 09:45, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『インマヌエル=共におられる主』(イエス・キリストの生涯 その180)(2021.10.10)

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7章14節/マタイ福音書1章23節参照)

  • はじめに…コロナウイルス感染しかり、疫病や災害、経済的貧困や社会的抑圧、そして他者からの謂われなき誹謗中傷など、予測不可能かつ自分自身の力ではどうすることもできない不可抗力の事象が、多かれ少なかれ私たちの人生に降りかかってきます。しかし、その人生の主人公は私たち自身です。その人生をどう生きるのかは、私たち一人ひとりに託されています。予測不可能で不可抗力の人生を、かつての人たちはどのように生きたのか、その膨大なサンプルが聖書には記録されています。そしてどのように人生を送れば良いのか、そのヒントあるいは指針が示されていると言ってよいでしょう。
  • アハズの時に…今日のテキストは預言者イザヤが召命を受けた年に死んだウジヤ王の孫、アハズが王としてユダを治めていた時のことです。北の国々の脅威が日に日に強く迫って来ていました。そのような中で、アハズも民も動揺していました(イザヤ7章2節)。そこで主のことばを託されたイザヤが、動揺するアハズに語りました。「静かにしていなさい」「恐れている事態は起こらない」「(だから)しるしを求めよ」(同4、7、11節)
  • 私は求めません…しかしアハズは「私は求めません」(同12節)と、きっぱりイザヤの語る主のことばを拒否しました。アハズにとっては、差し迫る危機を前にして、主のことばは何の保証(保障)にもならないと考えていたのです。むしろ現実的と思われる外交対応と中途半端な宗教儀式に頼っていました。つまり主に信頼せず、人に信を置いて歩むべき道を決めていました。
  • インマヌエル…しかし主は、ご自身から一つのしるしを与えられ、そのしるしは処女がみごもり、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づけるということでした(イザヤ7章14節)。イザヤ書の文脈から言えばその子はアハズの子で次期ユダの善王ヒゼキヤということになります。つまりヒゼキヤの人生の歩み方に、後のイエス様のインマヌエルの在り方が予型されているということです。そのことをマタイは深く悟り自身の福音書のはじめに書き記したのです(マタイ1章23節)
  • 結び…私たちの振る舞いによって主はご自身の愛の計画(インマヌエル)を変更される方ではなく、貫徹される方です。その主の愛の計画そのものであるイエス様に信頼して歩める人生は平安と祝福に他なりません。感謝
Posted on 10/03/2021 at 09:12, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『罪の贖いと派遣』(イエス・キリストの生涯 その179)(2021.10.3)

すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』」(イザヤ書6章9節)

  • はじめに…先週「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」がテレビで放映されていました。印象的だったのは最後の舞台であるペトラ遺跡(ボツラ)での父が子に語ったことばでした。地震で裂けてできた底なしの谷底へ落ちかかっている聖杯を取ろうとする子(自らも谷底へ転落しかかっている)に「あきらめなさい」。別のことばで言うならば「手放しなさい」でしょう。私たちも愛着のある物や自己本位な目的やビジョンなど私利私欲がありますが、それらを手放し、他者のことばに隠された真理を選び取る場面があると思います。
  • ウジヤが死んだ年…さて本主日のテキスト、イザヤ書6章の冒頭に「ウジヤ王が死んだ年」とあります。歴史的には紀元前742年です。ウジヤ王は16歳で王として立てられていますが、最初「アザルヤ」と呼ばれています。そのウジヤ王は、聖別された祭司の務めの香をたき、その越権が原因で病(ツァラアト/らい病)に罹り、隔離生活の後、亡くなりました(歴代誌第二26章18、21節)。聖書はそれを「心の高ぶり」(同16節)と記しています。その年にイザヤは幻を見、主の召命を受けたのです。
  • くちびるの汚れた者…幻を見たイザヤは「ああ、私は、もうだめだ」「私はくちびるの汚れた者」(イザヤ書6章5節)だと、絶望しています。その幻は主を賛美するセラフィムでした。語源はサーラフ=燃える、で転じてセラフィム=天使、または、へび、まむしを指す語となりました。しかも“香をたく”ということも同根の語です。天使セラフィムのくちびるはまったく聖いくちびるでした。しかもその姿は主を畏敬し(顔をおおい)、謙遜で(足をおおい)、かつ自由(飛んでいた)でした。その幻を目の当たりにしたイザヤは自らのこころの在り様を自覚させられたのです。しかしそのイザヤのもとにセラフィムの方から飛んできて、燃えさかる炭をイザヤの口に当て、不義を除き、罪を贖われ、そして召命を受けたのです。「だれを遣わそう」(同8節)
  • 悟るな、知るな…主の召しに「私を遣わしてください」(同上)と応じたイザヤの語るべき内容は「『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』」(同9節)でした。それは聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見ようとする、私たちを含むすべての人間の自分本位の在り方に抗うみことばの奥義、御業の預言でした。それは悟りがたく、知りがたいものでした。
  • 結び…悟りがたく、知りがたい、御国の奥義を、イエス様がたとえ話と自らの生き様を通して、頑なな私たちに顕して下さったのです。
Posted on 09/26/2021 at 09:29, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『残りの者=あわれみの予定』(イエス・キリストの生涯 その178)(2021.9.26)

もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。(イザヤ書1章9節)

  • はじめに…先週、私たちのもとに訃報が届きました。インドのマザーハウスのシスターたちから“ミセス・オロナイン”と呼ばれていた、私たちの知人で恩人でもあった是枝律子姉が新型コロナウイルス感染症によって亡くなりました。しばらく茫然自失状態でした。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者の書3章2節)のみことばの厳然たる現実に打ちのめされる思いでした。けれども、その打ちのめされた思いから救い出してくれたのは「良かった。是枝さんも天国で(事故で先立った)息子さんとご主人に会えて喜んでいると思う」と語られた一人の姉妹の実感のこもった言葉でした。アーメンです。今、是枝さんと関わりのあった者の中から、是枝さんが生前取り組んで来た働きと、その意志を継承、発展させようとする人々が起こされています。私たちもその一端を担わせていただけるなら光栄です。
  • 新約聖書におけるイザヤ書…さて先主日は“バラ”が記されている聖書のみことば、イザヤ書35章1節、ルカの福音書6章44節からシオンの回復と神の民の救いの働き、つまり時が満ちるまで待ち続ける父なる神と私たちの罪の贖いの子なるキリスト、そして私たちの霊を一新される聖霊の働きを学びました。その学びに触発され、今後、新約聖書に引用されているイザヤ書のみことばから聴いていきたいと考えています。
  • 残りの者…今回はその第一回、イザヤ書1章9節です。これはローマ人への手紙9章29節に引用されています。キーワードは「残された者」。ロマ書は「子孫」、イザヤ書は「生き残りの者」となっています。「残りの者」は自らの努力、能力で生き残ったのではなく、主の一方的な恵み、あわれみによって“残された”のです。イザヤ書1章の文脈によれば8節「シオンの娘は残された」とあり、残されたのは“イスラエルの民”ですが、ロマ書では異邦人にまで拡大されています。全知全能で、愛、善、聖その本質である主の御心は滅ぼすことではなく、恵みとあわれみによって救うことに尽きます。それは百パーセント聖霊の働きによる信仰によってです。人間の行ない、願いや努力、善行によるのではないということです。私たちの中には救われる能力も価値も無く、主の前に皆滅ぶべき罪人なのです。にもかかわらず主の目には尊く高価に映っているということです。なぜなら主イエス様がすでに私たちを贖って下さったからに他なりません。神様の憐れみのご計画です。
  • 結び…救いに与っている者の在り様は、主に対する感謝と奉仕、礼拝です。
Posted on 09/19/2021 at 09:17, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ばら物語』(イエス・キリストの生涯 その177)(2021.9.19)

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。(イザヤ書35章1節/新共同訳) The wilderness and the solitary place shall be glad for them; and the desert shall rejoice, and blossom as the rose.(同/KJV)

  • はじめに…先週から家内がブリザーブドローズに挑戦しています。自宅玄関で鉢植えにして育てているバラを切り、ブリザード液に浸しています。どんなふうに仕上がるのか楽しみです。アレンジして作品になったら後日フェイスブックに写真をアップしようと思います。世界中にバラにまつわる物語(たとえば『美女と野獣』)や歴史、町おこしの取り組み(たとえば広島県福山市の「ばらのまち福山」やイギリスの「オープンガーデン」)があるように、バラには人々を魅了してやまない力と可能性があるように思います。
  • 聖書の中のバラ…聖書のみことばのなかに“バラ”が記されているか調べてみると、数カ所ほどありました。そのなかで心に留まったみことばが本日のテキストのイザヤ書35章1節です。35章はシオンの回復と神の民の救いについての預言です。つまり“バラ”はその象徴としての存在だと言えます。
  • イエス様の語られたバラ…一度、イエス様はバラを持ち出してたとえ話をされています。「木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」(ルカの福音書6章44節) と。サラッと読むと、いばら/野ばらは悪い木、いちじく/ぶどうは良い木と読んでしまいがちです。しかし、ルカの福音書13章6-9節でイエス様は「実のみのならいいちじくの木」の話をされています。いちじくの木でもぶどうの木でも実をつけない木もあるということです。ここで語られているのは、イエス様は、実りのないいちじくの木、実りのないぶどうの木が実をつけるまで待ってもらうよう仲介をし、創造の父なる神様は、そしてその弁護を受けて忍耐し時が満ちるまで待ち続ける父なる神と子なるキリストとの関係と言えます。そしてイエス様が十字架において贖いの血を流され、言い替えれば聖霊の水がこの地に(さらに黄泉にまで)注がれた事実により、いちじくもぶどうも、そしていばらも野ばらも、すべての被造物が贖われ、新しくなると、福音の大路が明らかにされ、その感動に霊、たましい、からだすべてが喜び躍る、そう先見者イザヤは預言したのでしょう。
  • 結び…天地創造の父なる神様、贖いの主イエス様、弁護者であり養護者である聖霊様の栄光に照らされ、輝く、回復したエデンの園を確信させて頂ける恵みを感謝します。
Posted on 09/12/2021 at 08:44, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『WELCOME』(イエス・キリストの生涯 その176)(2021.9.12)

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28章30-31節)

  • はじめに…インターネット環境の整った今の時代、ウェブカメラで世界中の“今”をリアルタイムで観ることができます。コロナ禍であってもバーチャル世界旅行ができます。それで現在のエルサレム(西壁)の様子をウェブカメラ(www.skylinewebcams.com/)で見てみると、超正統派ユダヤ人の方々が壁一面に引っ付いて祈りを捧げていました。同様に、ローマに護送されたパウロが住んでいた(軟禁されていた)といわれる場所に建てられた、サン・パウロ・アラレゴラ教会を観てみると、教会の尖塔がライトアップされていましたが周囲は閑散として人の気配はありませんでした。しかしリアルタイムでかつてパウロが生きた生の現場を見ると、タイムスリップして、パウロの息遣いを身近に感じることができます。
  • 聖霊に導かれて…ユーラクロンと呼ばれる暴風に翻弄されたり、穏やかな南風を帆にいっぱい受けて、途中、数々の港に寄港しながらパウロ一行はローマに到着しました(AD60年春頃)。そしてそこで二年間、自費で借りた家に住み、訪問者をみな歓迎して受け入れ、神の国、イエス様のことを教えたと使徒の働きの著者ルカは記して、その筆を置いています。その書き出しは、復活のイエス様が神の国のこと、そして聖霊が臨むとき、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果て(ローマ)まで、私の証人になると語られたことでした。事実、パウロが聖霊の導きによってキリストの証人として地の果てのローマで、神の国そしてイエス様のことを大胆に語り、みことばが成就したことを伝えています。
  • イエス様の心を伝える…ちなみに今日の聖書の箇所のヘブル語訳を私訳してみると「彼は神の国を呼び求め(電話し)、信仰の中心で私たちの主イエス・キリストの道(心)を妨げられることなく教え続けた」となります。パウロは、キリスト教神学を教えたのではなく、イエス様を心の中心に迎え入れ、イエス様の隣人を大切に思うあたたかい感情でもって、訪ねて来る人たちと分け隔てなく接したということでしょう。パウロにとっては、世界を駆け回ることも幽閉されても、その立ち方には何ら変わりはなかったのです。
  • 結び…今、私たちが自分の置かれている環境、状況がどうであれ、聖霊の導きの中で、イエス様を呼び求め、イエス様のあたたかい思いをもって生きられますように。
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