Posted on 11/13/2022 at 19:06, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『風習→律法→信仰』(新約に引用されている旧約 その25)(2022.11.13)

あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である(レビ記18章5節) /モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています(ローマ人への手紙10章5節)

 

◆はじめに…「死刑のはんこを押すときだけニュースになる地味な役職」と発言し、辞任した葉梨前法務大臣。いのちの尊厳を軽んじているとしか思えません。「あなたのいのちは紙切れ一枚、私の手のはんこにかかっているんですよ」と言われいるようで、背筋が凍り付くような感じがします。

◆風習…今日の聖書のテキストの主題は「風習・律法・信仰」です。主はモーセに語られました。「エジプトの地のならわし、カナンの地の風習に従ってはならない」(レビ記18章2節)。当時のエジプト、カナンの地しかり、そして現代の日本の地しかり。さまざま社会風紀の乱れ(パウロ風に言うならば「今の悪の世界」)があります。性的な乱れや偶像崇拝、まじない、霊媒等々…。いわゆる快楽主義的傾向です。

◆律法…それらに対峙するかのように、主はモーセに十戒を中心とした律法を授けられました。そのモーセの律法には613の規定があると言われていますが、それらを厳格に守ろうとしたものが律法主義です。それらを守ること、行うことで神の前、人の前で義しく生きようとしました。神(の律法)に対して熱心に振る舞おうと努力したのです。そのようにして神の義を求めているかに考えていながら、実は自分の義を立てようと必死になっていたのです。

◆信仰…パウロは誰よりも熱心に律法を行なっていました。“行いによる義”を立てていました。その義を他者にも求め、自らの義の理解と異なるステパノはじめ、エルサレム教会を迫害しました。その最中、復活の主と出会い、パウロの律法主義は終わりを迎えました。つまりローマ人の手紙10章4節にあるように、キリストが律法を終わらせられたのです。キリストが律法の目標であることをはっきりと認識したのです。「律法による義」から「信仰による義」に生きるように霊的に生まれ変わった、復活した“新しい人”(エペソ4章24節)となったのです。

◆結び…主イエス様は、十字架と復活によって、私たちを捕らえて離さない風習からも律法からも解放してくださり、私たちを日々造り変え、新しく創造された者として自由に生かしてくださいます。

 

Posted on 11/06/2022 at 18:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『恵みとあわれみの主』(新約に引用されている旧約 その24)(2022.11.6)

主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジプト33章19節) /神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました(ローマ人への手紙9章15節)

 

◆はじめに…ロシア「国民統合の日」の祝日だった4日、前大統領のメドベージェフ国家安全保障会議副議長が「創造主の言葉が我々に神聖な目的を与えた。地獄の支配者、サタンや大魔王の阻止だ。彼らの目的は破壊で、我々は命。だから勝利は我々のものだ」とSNSで投稿をしたと朝日新聞デジタルが報じていました。暗澹たる気持ちになります。主がロシアのウクライナ侵略を良しとすることなどあり得ようはずがありません。主のみこころは「殺してはならない」「剣を納めよ」「二度と戦いを習わない」です。

◆モーセとパウロの同胞に対する思い…今日の聖書のテキストの主題は「恵みとあわれみの主」です。「怒りをおさめ、思い直してください」(出エジプト記32章12節)と主に祈り嘆願したモーセは、さらに外交官が外交交渉するように主に和解を求めます。「この民は大きな罪を犯してしまいました(…)彼らの罪をお赦しくだされるものなら、どうかあなたの書物から、私の名を消し去ってください」(出エジプト32章32節)と。パウロもローマ書9章の冒頭、モーセと同じ思いを表白しています。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」(ローマ書9章3節)と。

◆イスラエル人の救い…「金メッキの子牛」事件以後、主は、宿営の外の天幕において、モーセとだけひっそり会うようにしていました。つまり救い、主との直接的霊的交流がモーセただひとりだけに限定されてしまった訳です。この状況をモーセは良しとしませんでした。モーセ個人の救いでは満足しなかった訳です。それでモーセはさらに祈りよって主と粘り強く直接交渉を続けました。「あなたのお心にかなっているのでしたら(…)私たちの咎と罪を赦し、あなたのものとしてください」と。そしてモーセは主との再契約を締結し、幕屋の完成に至りました(出エジプト記34章10節以降参照)

◆結び…主の臨在は、幕屋から神殿、さらにイエス様ご自身となり、恵みとあわれみの主によって、今から将来にわたって、すべての人に救いが及んでいる真実があることを覚えたいと願っています(ローマ書11章25-26節)

Posted on 10/30/2022 at 19:16, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神を造ってください!?』(新約に引用されている旧約 その23)(2022.10.30)

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもと集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください(…)」(出エジプト32章1節) /『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから。』とアロンに言いました(使徒の働き7章40節)

◆はじめに…私の勤めるデイサービスでは、現場スタッフ、現場リーダー、現場管理者に対する各種ミーティングを定期的に持っています。先日のリーダー会議では、度々物を盗む利用者さんの対応をどうするかがテーマになり、様々な対応策(案)を話し合うも、なかなか妙案は出ず、「所長はどう思われますか? 所長が“こうする”というならそれに従います」と結論を急ぐような話にもなりましたが、継続して検討することになり、ホッとしました。

◆金(メッキ)の子牛…今日の聖書のテキストは「待てない民の不安と不満」です。モーセがシナイ山に登ってから四十日が経過しようとしていました。ところが山に登ったまま帰って来ません。死んだ? 逃げた? 民は不安になり、混乱し、不満が募ります。それで残っているアロンに「私たちのために神を造ってほしい」と願ったのです。そうすれば安心しますと。アロンの造った神は「鋳物の子牛」(出エジプト32章4節)でした。その前に「金の耳輪を持って来なさい」(同2節)と指示をしていることから、「金メッキの子牛」だったのでしょう。そして牛そのものが神というより、牛を台座としてその上に臨在する見えないヤハウェをイメージしていたと思われます。そうだとしても偶像(物言わぬ神)です。

◆主と対話していたモーセ…山の上では、主がモーセに対して、臨在の幕屋の備品として、純金で「贖いのふた」と「燭台」を作るよう指示していたにも関わらず、山のふもとでは「金メッキの子牛」を造って、安易な安心と満足を得て喜んでいるイスラエルの民。その現実を知り、山の上でモーセは、主と対話をしていました。「怒りをおさめ、思い直してください」(出エジプト記32章12節)と。

◆主イエスと対話していたステパノ…この出エジプトの一連の出来事を、ステパノは議会での弁明(証し)で引き合いに出しています。しかし議会の人々はますます憤り、ステパノを町の外に引きずり出し、石を投げつけリンチにしました。その最中にステパノは天を見上げ、主イエス様を見、そして語りかけました。「この罪を彼らに負わせないでください」(使徒の働き7章60節)と。

◆結び…私たちは自らの安心・満足を求めて、偶像を礼拝する誘惑があります。しかし主イエス様は、私たちの祈りを聞いてくださり、対話されるお方です。

Posted on 10/23/2022 at 15:51, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『真実の幕屋』(新約に引用されている旧約 その22) (2022.10.23)

よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。(出エジプト25章40節) /その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」(ヘブル人への手紙8章5節)

◆はじめに先週、満面の笑みを浮かべた河野太郎デジタル大臣が、大臣そっくりに型どったアバターロボットと並んでメディアに出ていました。今後、公的な場にアバターロボットが出席?して、大臣になり代わって公務を行なう実証実験が行なわれるようです。公共の場で情報発信したり、遠隔地での業務を大臣の代わりにアバターロボットが行うことで、大臣の移動にかかる時間や費用の削減効果をチェックするとか。結局、権力者がなるべく労力を使わず、ゲーム感覚で民衆をもてあそぶことになるだけでは…。一方で、小型分身ロボット「OriHime(オリヒメ)」が、病気や身体的な理由で行きたい場所に行けない人が、会いたい人に会ったり、社会参加したりして、世界を広げ、誰かに必要とされて、死ぬ間際まで生きがいを感じられる社会を実現するために活用されはじめています。

◆天の写しと影…今日の聖書のテキストは「真実(天)の幕屋」と、その“写しと影”である「型(地)の幕屋」です。「型」あるいは「形式」から入ることは有限な人間にとって、とても大切なことです。伝統芸能や武術、スポーツ、お茶やお華の作法など、様ざまな学習も「型」から入ります。「学ぶ」ことは「まねぶ(真似ぶ)」ことです。創造主なる神も、神と人のコミュニケーション(霊的礼拝)の在り方を伝えるためにモーセに幕屋の建設を指示なさいました。地上の幕屋は天上の幕屋の「型」、すなわち“写しと影”だとヘブル書は語ります。モーセの幕屋が“写しと影”であるように、現在のキリスト教会も“写しと影”です。

◆真実の幕屋では「真実(天)の幕屋」とは? 天に地上の幕屋(教会)とそっくりな幕屋(教会)があるのでしょうか? 幕屋は主の臨在そのものです。教会はキリストのからだです。イエス様がこの地に住まわれたとき、イエス様ご自身が幕屋となられました。復活、昇天して天の御座に着座されました。イエス様は真実(天)の幕屋として天と地とよみを聖霊で満たして、大祭司の務めを続けておられます。幕屋の構造は、至聖所・聖所・庭の三位一体構造です。知・情・意であり、霊・たましい・からだ、父・子・聖霊、愛・恵み・交わりの三位一体構造です。

◆結び…真実の幕屋なるイエス様は、私たちを親愛の情をもって包み込んで下さり「神の民(神の子ども)」の型として天上の礼拝に与らせて下さっておられます。

Posted on 10/16/2022 at 16:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主の遺言(契約)としての血』(新約に引用されている旧約 その21)(2022.10.16)

そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24章8節) /これは神があなたがたに対して立てられた契約(遺言)の血である。」と言いました。(ヘブル人への手紙9章20節)

◆はじめに私の勤めているデイサービス事業所は、要支援者に対するサービスと要介護者に対するサービスの、二つのサービスを提供しています。デイサービスの利用者は、身体の状態の変化によって介護度も変わり、要支援だった利用者が要介護になったりします。すると新たに契約を結び直します。そして新しい契約書(事業所用と利用者用の二部)に署名、捺印してもらう必要があります。

◆旧約と新約…聖書は、旧約(第一契約)聖書と新約(第二契約)聖書が一つになっています。神様と人間の間に交わされた契約です。旧約は、羊や牛の血を用いて、契約が効力を持つものであることをお互いに承認しました。新約はイエス様が十字架で流された血によって、救いの契約が発効されたことの証しとなりました。旧約は動物の血、新約はイエス様の血によって契約が結ばれたのです。そのことをキリスト者は信じています。一度流された血、分けられた血は、元に戻すことはできません。故に、この血によって交わされた契約の承認は、無効にはできない、という意味と意志が込められているのでしょう。

◆遺言この契約のことをヘブル人の手紙では“遺言”と言っています。遺言と言うと、財産分与のことを想像しますが、私の祖父(母方)の遺言は「家族仲良く暮らすように」だったと聞いています。ではイエス様は? と言えば「罪を取り除くため」「救いのため」とヘブル人への手紙には記されてあります(ヘブル人への手紙9章26、28節)。イエス様ご自身は、わたしの血を飲む者は「永遠のいのちを持っている」「終わりの日によみがえらせます」「わたしのうちにとどまります」とおっしゃいました(ヨハネによる福音書6章54、56節)。遺言を確かなものとするためにこの世に来たのだと。「羊(あなた)のためにいのちを捨てる」(同10章11節)と。イエス様が十字架で自ら血を流し、いのちを捨てられることは、「あなた(羊)がいのちを得、それを豊かに持つため」(同10節)だと。その遺言を想起し続けることができるように、イエス様は「聖さんの時(聖餐式)」を準備して下さいました。

◆結び…罪の贖いと救いの確かな約束(遺言)を、霊、たましい、からだの全人格として感じ、体験し、証しする豊かな人生を、今日も主が共にいて導いて下さっていることに感謝します。

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