Posted on 12/24/2023 at 09:04, by matsumoto
主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇110篇1節) /『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」』と言っているのですか。(マタイ22章44節他)
◆はじめに…本主日アドベント第四主日は「マリヤのキャンドル」です。マリヤが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。マリヤ自身、「ひどくとまどって(…)」(ルカ1章29節)と、心の葛藤を覚えつつ、「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と、御使いのメッセージを受け入れました。ことばを耳で聞いて真の生命を懐妊した、科学の域を超える霊的な事柄です。これは自らのいのちを主に預ける覚悟、信仰による決断です。誰一人信じてくれそうもない出来事を、身体丸ごと受け止めた歴史的事実(真実)なのです。
◆聖霊の交わり…受胎告知の六カ月前に、すでにバプテスマのヨハネを胎に宿した身重のエリサベツを訪ねたマリヤは、エリサベツから励ましと祝福(=預言)のことばを受け、“マグニフィカト”と呼ばれる主への賛歌を歌いました。エリサベツが祝福のことばをマリヤに語ったのは、マリヤの挨拶を聞いた瞬間、ヨハネが胎内で踊り、聖霊に(完全に)満たされてのことでした。一方、マリヤには「聖霊が臨む(到来する)」と御使いが語りました。「聖霊の臨在(到来)」と「聖霊の(完全な)満たし」の出来事が、エリサベツとマリヤの出会いのただ中で起こったのでした。同じように、イエス様が私たちに到来する瞬間、私たちの内なる霊は感動(胎動)し、一瞬で聖霊が充満します。以前、使徒信条第3項「主は聖霊によりて宿り」のヘブル語訳を日本語に訳すと「聖霊によって熱心に捜し求められた」となることをお話しましたが、主が聖霊を遣わして私たちを捜し求め、出会われるお方だということの根拠がこのエリサベツとマリヤの出会いだと言えます。
◆神の右の座におられる主…今、この待降節のとき、復活された主イエス様は、天の父なる神様の右の座におられ、執り成しの祈り(=力強い杖を伸ばす)をし、私たちのために聖霊を遣わして下さっています。ゆえに私たちは夜明け前(朝の胎内)から聖霊の感動(胎動)なる祈り(あるいは賛歌)をもって主に仕える日々を、喜びのうちに送ることができます。
◆結び…今年2023年も残すところ、あと一週間となりました。今年最後の一週間、聖霊様の導きによって隣人と出会い、その出会いを通してイエス様が私たちの内に宿り、聖霊様が自由に働いて豊かに実を結び、天の父があがめられますように。
Posted on 12/10/2023 at 15:09, by matsumoto
これらのもの(天地の被造物)は滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。(詩篇102篇26節) /これらのもの(天地の被造物)は滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。(ヘブル1章11節)
◆はじめに…昨日、恵愛園(障害者支援施設)でクリスマス祝会が開催されました。利用者、スタッフ、関係者含め総勢180人ほどの集いでした。午前10時から正午までの約2時間の祝会でしたが、きっと今年、最も早くイエス様の誕生を祝う会だったのではないでしょうか。嬉しかったのは、利用者のSさんが、私が施設に到着するのを外で待ち構えていて、祈ってくれたことです。その間わずか三分ほどでしょうけれども、Sさんのイエス様に対する愛と、他者に対する気遣いは、どれほど父なる神様の喜びになったことでしょう。そしてその小さな祈りの時が、今後の彼と私の歩みにどれほどの恵みをもたらすか、それは計り知れません。
◆預言者…本主日アドベント第二主日は「預言者」を想起する時です。旧約聖書は39巻の書物で構成されていますが、モーセ五書(5巻)・歴史書(12巻)・詩歌(5巻)、そして預言書(17巻)に分類されますが、預言書は預言者たちに託されたメシア来臨の預言が、イエス様の誕生によって成就したことを象徴しています。アドベントは“到来”とともに“冒険”という意味ですから、大胆に困難(危険)な場所に踏み込むということです。困難な闇の世に、希望と平和と喜び、そして愛を携えてイエス様が来られる、そのメッセージを預言者は伝えると同時に、預言者は再臨のイエス様をも預言しています。
◆復興…今日のテキストの前節は、ネヘミヤ書9章6節と基本同じ内容です。主が天地万物を創造し、生かしておられると。ただそれらは滅びると。しかし、あなた(主)はいつまでもながらえる。ネヘミヤは、そのリーダーシップによって、神殿の周囲を取り巻く城壁、そして民の復興(復活)を導きました。そのきっかけは、エルサレムに先に帰還した親類から、エルサレムの困難な現状を聞いたからです。内外の敵による再建工事の妨害に対してもあきらめることなく工事を遂行し、わずか52日間で城壁の再建を完成させました。
◆とっさの祈り…その原動力は主に対する“とっさの祈り”でした。私たちも、困難な課題に直面します。しばしば困難な壁に突き当たります。自分の力では解決できませんが、主に祈り、主に委ねるとき、門は開きます。主が開けてくださいます。そのために天の父が、独り子イエス様をこの地に遣わしてくださったのです。その真実を私たちは聖霊様によって確信することができます。
◆結び…アドベントの日々、イエス様の御名で祈れる幸いを感謝します。
Posted on 12/03/2023 at 10:58, by matsumoto
メリバ(=争い)のときのように、荒野のマサ(=試み)の日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない(詩篇95篇8節) /荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない(ヘブル3章8節)
◆はじめに…本主日からアドベント(待降節)となりました。とは言っても今年は変化の目まぐるしい年で、今なお状況に翻弄されています。振り落とされないように必死にイエス様にしがみついているような感じです。向こう岸に渡るために舟に乗り込んだ弟子たちが、大嵐で水をかぶり、イエス様に「先生! おぼれて死にそうです!」(ルカ8章24節)と叫ぶ、その弟子の心境です。
◆アブラハム…例年同様、アドベント第一主日は“信仰の父”アブラハムを想起します。「わたしが示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とする。すべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章1-3節)との主の約束を信じ、「モリヤの地に行きなさい(…)イサクをわたしにささげなさい」(同22章2節)との最初の約束を反故にするかのような主の御声に従順に従い、生涯、信仰の歩みをまっとうしました(ヘブル11章8、17節)。アブラハムの信仰にならう者として「この人(あなた)もアブラハムの子なのです」(ルカ19章9節)と、イエス様の方から私たちを訪ね、近づいて来て下さいます。
◆試練、苦難…信仰の成長には、試練が伴います。祝福と苦難は隣り合わせです。逆に言えば、試練のあるところには信仰の成長があり、苦難のあるところには祝福があります。試練と苦難を与えることが天の父の目的ではなく、私たちが、イエス様ご自身が試みに会われ、従順を学び、完全な者とされ、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル5章8-9節)、その救い主イエス様の愛を心底信じる者となることが目的です。
◆心をかたくなにしない…イスラエルの民は(モーセも含め)、荒野での試練の際、心をかたくな(ヘブル語=激しいこと、ギリシャ語=頑固)にしました。「私たちを渇きで死なせるきか! 主は私たちの中におられるのか!」(出エジプト17章3、7節)と。私たちも困難な出来事に直面すると、感情が激しく動揺し、苛立ち、心が頑なになります。そんな私たちを主は愛の眼差しで見つめ、「わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7章37節)「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」(マタイ28章20節)、と穏やかに優しく語りかけ、苛立つ感情、張りつめた精神を柔らかくして下さいます。
◆結び…インマヌエルのイエス様を、静かに拝する待降節となるよう、祈ります。
Posted on 11/12/2023 at 20:19, by matsumoto
主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(詩篇94篇11節) /神は、知者の議論を無益だと知っておられる。(①コリント3章20節)
◆はじめに…先週、家内の血液検査および内蔵のエコーを撮るために久留米の病院へ一緒に出掛けました。その結果、内蔵は正常に働いて、血液中のカリウムの数値も服薬で標準値範囲内に収まっており、ひとまず安堵。今後も、服薬と食事療法で健康管理を続けることになります。どうぞお祈りに覚えてください。
◆むなしい、無益…今日のテキストの詩篇94篇は、厚顔無恥な者から抑圧されている者が主に嘆き、救いを求める歌で、①コリント3章は、御霊ではなく肉に属するゆえに、ねたみや争いが絶えないコリント教会の信徒に対して、パウロが噛んで含めるようにしてキリストにある霊的一致の真理を教え諭している手紙と言えます。私たちも、自分の考え、自分の計画がもっとも正しい、他者のそれよりも優っていると考える傾向があります。そんな人の計画がむなしく、知者(だと自負している者)の議論ゆえに巻き起こる争いやねたみが無益(百害あって一利なし)なことを、主は百も承知ですよと、聖書は記しています。
◆実、有益…それでは、何が“実”であり“有益”なのか。それは、人の計画ではなく御霊に“実”(ガラテヤ5章22-23節)があり、知者の議論ではなく神のご計画が、召された人に“有益”(ローマ8章28節)をもたらす、そう、御言葉は語っています。御霊(助け主、とりなし手=パラクレートス)はイエス様が遣わされ、私たちの内に住まわれます(ヨハネ14章16-17節)。そしてイエス様の語られた御言葉を思い起こさせてくださいます(同26節)。聖霊と御言葉に実益があり、その果実を得る方法がイエス様の御名による祈り(霊的呼吸)です。
◆イエス様につながる…イエス様はご自身をぶどうの木、そして私たちをその枝にたとえています。そして枝が木につながっているなら、多くの実を結ぶと約束してくださっています(ヨハネ15章5節)。そして「わたしの名によって求めなさい。そうすれば受ける」(同16章24節)とも。イエス様と霊的につながる、すなわち祈りでつながる時、豊かに実を結びます。どんなに小さな祈りであっても、イエス様の御名によって祈る祈りは、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ偉大な祈りになります。最近はやりのNISA(ニーサ)で地上に積み立てするよりも、イエス様の御名による祈り(感謝と祝福)で天に宝を積み立てることで、人生が祝福に満ちます(①ペテロ3章8-18節)。
◆結び…イエス様にしっかりとつながり、しがみつき、新しい日々を一歩一歩、共に歩んで行けるよう、祈ります。
Posted on 11/05/2023 at 20:34, by matsumoto
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。(詩篇91篇11節) /神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる(ルカ4章10節)
◆はじめに…先週、うれしい出来事がありました。「今までずっと、先生たちのことが気になっていました。かつて先生たちに失礼なことをしました。この年になって分かります。お詫びします」と。電話口での震える声から、Nさんが本心から赦しを乞うていることが伝わってきました。自らの過ちを認めて、直接、謝ることは勇気がいることだと思います。聖霊様の導きに感謝します。
◆御霊に導かれて…今日のテキストは、いわゆる「荒野の誘惑」とか「荒野の試み」と呼ばれている箇所です。荒野へ導いたのは御霊ですから、創造主(父なる神様)のみ旨に基づく明確な意図と目的があります。ルカはこの「荒野の試み」の前に、イエス様から人類の始祖アダムへ遡る系図を挿入しています。そこから読み取れるのは、最初の人間アダムの失敗を、第二(最後)のアダムとしてイエス様が、罪人の末裔であるすべての人類の救い主として唯一無二の方だということを伝えています。そのことをサタン(この世の支配者)がアダムを誘惑したように、イエス様を誘惑したものの、そのすべての誘惑に対してイエス様が勝利したことで、裏付けています。
◆三大誘惑…私たちにとっての“荒野”は、私たちがただ一人、祈りと黙想をする場であり、時です。聖なる時であり、聖なる場であると同時に、世俗の考えが襲ってくる場であり、時でもあります。その中で、最も大きなものが①経済問題(パンかみことばか)②政治問題(支配か奉仕か)③宗教問題(贈り物か贈り主か)です。
◆すべての道で…それらの誘惑に対してイエス様は、申命記のみことばをもって、それらの誘惑を退けました。それは“荒野の四十年”でモーセが導く中、イスラエルの民が失敗を繰り返しながら学んだ、主のみことばでした。私たちもこの世の考えが入り込む環境の中にあって、無数の選択肢があり、迷路もあれば、脇道もあります。その分かれ道で、イエス様の語られる一つひとつのみことばに支えられて生きたいと思います。イエス様は道であり、真理であり、いのちです。
◆結び…御使いを遣わして私たちを“すべての道で守られる”と、主は約束してくださっています。聖霊様の導きに従い、みことばに生かされ、神と人に仕え、主に栄光をお返しする新しい月となるよう、祈ります。