Posted on 02/24/2025 at 16:35, by matsumoto
彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。(出エジプト記25章8節)
◆はじめに…私たちは真っ青な大空を見上げたり、水平線に沈む真っ赤な夕陽を眺めたり、猛烈な台風だったり、大地震を体験したり、あるいは、様々な植物や動物、そして人間の体がとても精密に造られていることを目にするとき、自然の驚異と崇高さに、感動とともに、畏怖(いふ)の念を抱きます。
◆主との距離…今日の聖書のテキストの内容は、幕屋の製作とそのための捧げものの指示を、モーセが再びシナイ山に登って主から受けることです。そのために「モーセは四十日四十夜、山にいた」(出エジプト記24章18節)とあります。この間、イスラエルの民にとっては、主との空間的、時間的、そして心理的、霊的距離はとてつもなく遠いものでした。「手間取っている」(出エジプト記32章1節)と感じ、それは先の見通しが利かない不安でした。主は、イスラエルの民に対して、ご自身が“共にいる”しるし、奇跡を幾度となく見せて来られました。葦の海を分けられ、マナを降らせ、うずらを与え、岩から水を出されました。けれどもイスラエルの民にとって主は遠い存在でした。すなわち“不在なる神”でした。
◆埋め合わせ…イスラエルの民は、“不在なる神”という不安感を払しょくし、代わりの物で埋め合わせをしようとしました。「神を造ってください」(出エジプト記32章1節)と懇願する民の訴えに、アロンは“金の子牛”を造りました。「これがエジプトの地から連れ上った神だ」(同4節)と宣言し、民はいけにえを捧げ、飲み食いし、戯れ、気持ちを紛らわしました。
◆隣り人としての主…主は、どこにでも存在される方です。空間も時間も超越されたお方です。その無限なる主の存在を、有限なる人間が証明することは不可能です。その主が、自ら「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト記25章8節)とおっしゃいました。ヘブル語の“住む”という語は、“隣に住む人”すなわち“隣人”という意味です。つまり、与えられたものを用いて(ささげて)、聖所(主と親しく交わる場)を設けようと意志したとき、主自ら私たちの内で親しい隣人になってくださる、そう約束してくださっています。ヨハネ福音書1章14節で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(幕屋を張られた)」とあるように、イエス様が私たちの内で隣り人となってくださり、親しく交わりをもってくださるのです。不安は平安に、憂いは喜びに変えられます。イエス様は、神と人との距離を縮めるために来られました。
◆結び…「ありがとう」の感謝をイエス様と、今週出会う隣り人に心から捧げる一週間となるよう、祈ります。
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