Posted on 02/16/2025 at 17:29, by matsumoto

『いっしょに』(ユダヤ人キリスト者と共に ミシュパティーム=定め)(2025.2.16)

あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。(出エジプト記23章5節)

◆はじめに…昨日(15日)は、職場で虐待防止研修がありました。講師には、トランスジェンダー(生まれた時の性別と自身で認識している性別が一致しない人)でした。長い間、人と違うことによって偏見、差別に苦しみ、現在は、一人の人間として分かり合える(「みんな違って、みんないい」)社会の実現のために、誰もが持っている「無意識の偏見」に気づくことができるセミナーを開催したりして、啓発、相談活動に取り組まれている方でした。

◆異質な存在=敵を排除する…今日の聖書のテキストは、モーセの十戒に続く、イスラエルの民が社会生活を円滑に営む上での規則、民法のようなものです。奴隷の扱い、家畜の扱い、在留異国人の扱い等々です。私たちは、本能的に自分と違う者(物事も含め)を排除したり嫌悪したりする傾向があります。男性と女性にはじまり、主人と奴隷、同国人と他国人、白人と黒人、多数派と少数派、そして隣人と敵というように、物理的・機能的な区別に嫌悪、憎しみといった感情が加わって差別、偏見によって世界を見るようになります。三千年前も現代もその傾向は変わりません。最近、トランプさんが「人間の性別は男性と女性のふたつしかない」と発言したように、それ以外は人間扱いしないと言っているに等しい発想です。確かに創世記2章27節に「男と女とに彼らを創造された」とあります。しかし、この「男と女」の意味は、それぞれ違う者同士が、神が一体であるように一体となり、神の似姿に似ていくための過程として創造されたということに他ならないでしょう。

◆いっしょに…そういう意味で、今日、取り上げた聖書の一節に見ていくと、神の似姿に似ていく生き方とはどういう生き方なのかが見えて来るのではないでしょうか? 今、私たちの目の前には、私たちを憎んでいる人の大切なろばが、荷が重すぎて、立つことが出来ず、荷物に押しつぶされています。私たちの気持ちとしてはどうでしょう? みことばは私たちに“いっしょに”起こすようにと促しています。このことをイエス様は山上の垂訓で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5章44節)とおっしゃいました。

◆結び…敵意、憎しみは人を引き裂きます。しかし目の前に痛み、苦悩、困難な状況が現れた時、私たちは互いに助け合い、「共に生きる」ように、私たちひとりひとりを価値ある尊い存在として創造されました。新しい週、主が与えて下さる出会いの中で、いっしょに生きる歩みが出来るよう、祈ります。

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