Posted on 09/21/2024 at 06:23, by matsumoto

『主は覚えておられる』(新約に引用されている旧約 その103)(2024.9.15)

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ12章10節) /また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。(ヨハネ19章37節)

◆はじめに…「今がいちばん幸せ」「ずっと信じとった」十一年前、召天した義母(眞津代牧師の実母)が私たちに残した最期の言葉です。その幸せ(祝福)と信仰の内容はイエス様ご自身です。罪の贖い主、復活のいのちの贈り主イエス様との再会の希望です。

◆血と水の源…十字架の上で頭(こうべ)を垂れたイエス様の脇腹をローマ兵が槍で突き刺した時、血と水が流れ出たとヨハネ19章34節に記されています。「血」は贖罪の血を示し、「水」は再生の霊を意味します(ヨハネ7章37-39節)。この再生は水をバプテスマとして、そして贖罪の血を聖餐の葡萄汁として私たちは覚えています。その源流は、イエス様の脇から流れ出でました。またユダヤ教においては、仮庵の祭りの最終日に行なわれる「水汲みの儀式」として覚えられていました(ただユダヤ人には秘儀としてその意味は隠されていました)。

◆彼の骨は砕かれない…ヨハネ19章33、36節の出来事は、イエス様の十字架において出エジプト12章46節の成就として「骨を折らない」ことが事実として起ったがゆえに、イエス様は聖書に示された真実の過越の小羊、贖い主であることが明らかです。そのことを将来、イエス様が再臨される時、イエス様を突き刺したユダヤ人たちが傷跡を持ち給う主を見る時が来ると聖書は記しています(黙示録1章7節)。そのとき、アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、そして使徒ペテロ、更にペンテコステの際に心を刺された3千人のユダヤ教徒のようにイエス様を見てその心が一変する時に来ることでしょう。

◆ゼカリヤ…ゼカリヤの名の意味は「主は覚えておられる」です。何を主は覚えておられるのでしょうか? ゼカリヤの父の名はベレクヤ=「主は祝福する」です。主は祝福の出来事を忘れないということです。ゼカリヤの祖父の名はイド=「時期を得た、タイムリー」です。では、主が覚えていないことは何でしょうか? それは“罪”です。「あなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。主のなさることは、すべて時にかなって美しい(伝道者の書3章11節)のです。

◆結び…主は私たち一人ひとりを覚えていてくださり、タイムリーに祝福で満たしてくださる方です。贖い主なるあなたのほかに神はありません(イザヤ44章6節参照)。

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