Posted on 07/07/2024 at 15:16, by matsumoto

『強くしてくださる主』(新約に引用されている旧約 その94)(2024.7.7)

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(エゼキエル37章27節) /神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(②コリント6章16節)

◆はじめに…孫が部活で野球をしていますが、毎回試合前には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4章13節) のみことばを祈って、そして試合に臨んでいると言っていました。ひと言のみことばが私たちの内に根付き、どれほど力づけ、立ち上がらせてくださるか、みことばの力を改めて知らされています。

◆エゼキエル…エゼキエルはバビロン捕囚期に活躍した預言者(兼祭司)です。捕囚5年目に「天が開け、神々しい幻=ビジョン、異象を見」(1章1節)、その後、主の御声を聞き、召命を受けました。「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り…」(2章2節)とありますから、御言葉=霊であることが分かります。幻と霊によってエゼキエルは立ち上がりました。エゼキエルの名の意味は“神が強くしてくださる”

◆息を吹き入れる…捕囚の中で、イスラエルの民は祖国を失い、自分自身を失い、茫然自失となり、希望を失っていたことでしょう。その中でエゼキエルは希望の預言を語りました。「新しい心を与え、新しい霊を授ける」「石の心を取り除き、肉の心を与える」(36章26節)「おまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(37章5、9、14節)。“枯れた骨”は捕囚と離散によって身体的精神的霊的に絶望し、“生きた屍(しかばね)”状態に陥っているイスラエルの民の象徴です。しかし、どんなに失望、絶望状態にあっても、主は、見捨てず見離さず、みことば(預言)と主の息、すなわち主の霊、聖霊を注がれ、再び希望に生きる者としてくださいます。イスラエルの民同様、私たちもその主の愛からもれることはありません。

◆新しい神殿の幻…エゼキエルは新しい神殿と新しい町のビジョンを語りました。主の栄光が満ち(44章4節)、「水が神殿の敷居の下から流れ」(47章1節)、「川のほとりの果樹は毎月、新しい実をつけ」(同12節)ました。生きとし生けるものが、いきいきと生きる町の名は『主はここにおられる=アドナイ・シャマ』(48章35節)。主がともにおられる時、私たちは最も私たちらしく、神の息子、娘として自由に、輝いて生きることが出来ます。

◆結び…この礼拝を通して、主の愛が一人ひとりに注がれ、主との親密さが更に深められ、神の子どもとして新しい一週間を生きられるよう、祈ります。

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