Posted on 06/23/2019 at 19:19, by matsumoto
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。(使徒の働き3章6-8節)
- はじめに…教会にはしばしば「お金を貸してください」と助けを求めてやって来る方があります。もちろん、様々な理由があります。旅費だったり、仕事に使う物のためだったり…。しかし、残念ながらその理由は嘘(作り話)で、お金を得ること自体が目的であることがほとんどです。もちろん全部が全部ということではありませんが、その度に、私たちは残念な思いになります。
- 必要としている人に…確かにいとすぎ教会では、感謝の献金の祈りのとき、「ささげ物が、今必要としている人のところに届けられますように」と祈っています。必要としている人のところであって、お金が欲しい人のところではありません。身の丈に応じて国連UNHCR協会やフィリピンや地元ホームレス支援に寄付しています。ほんとうに欲望と必要を見きわめることは困難極まります。
- 本当に必要なもの…私たち創造主に造られた者にとって、本当に必要なものは“イエス・キリストの御名”によって人生を歩くことです。しかし人はなかなか本当に必要なものが何か分からず、二番目、三番目のものを得ようとしています。永遠の生命ではなく、まず富を求めようとします。ペテロは最高の宝を言葉と行いで惜しみなく与えたのです。つい2カ月には、イエス様を見捨てて逃げ出したペテロです。イエス様との出会いと体験がペテロを愛の人に変えたのです。色眼鏡ではなくイエス様の目で人を見るようになったのです。
- ある病院の壁にあった詩…大事をなそうとして/力を与えてほしいと神に求めたのに/慎み深く従順であるようにと/弱さを授かった/より偉大なことができるように/健康を求めたのに/より良きことができるようにと/病弱を与えられた/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと/貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして /権力を求めたのに/神の前でひざまづくようにと/弱さを授かった/人生を享受しようと/あらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにと/生命を授かった/求めたものは一つとして/与えられなかったが/願いはすべて聞き届けられた/神の意に沿わぬ者であるに関わらず/心の中の言い表せない祈りは/すべてかなえられた。/私はあらゆる人の中で/もっとも豊かに祝福されたのだ
- 結び…受けるにしても、与えるにしても、主イエス様の御名で喜びと感謝に生きる、祝福された一人ひとりとなりますように。
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