Posted on 05/26/2019 at 17:20, by matsumoto
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。(…)(ルカによる福音書24章36-42節)
- はじめに…先週の日曜日から月曜日にかけて一泊二日で、福岡から3人の方が来訪されました。日曜の夕食は一緒に“過越の食事”を体験しました。旧約の律法(伝統)に則りつつ最後の晩さんで過越の食事を弟子たちとともにし、ご自身が贖いの小羊であることを啓示されたイエス様を想い起す有意義な時でした。神様の愛が旧約から新約、そして今を生きる私たちにまで貫かれていることを再認識する機会でした。
- 恐れ、動揺、疑い…復活のイエス様が弟子たちの集まっているところに立たれ、(新改訳にはありませんが口語訳・新共同訳には)弟子たちに「平安があるように」と、イエス様が声を掛けられたことが記されてあります(ルカ24章36節)。しかし弟子たちは、今までに経験したことのない出来事ゆえに皆、恐れ、動揺し疑いを持ちました。復活のイエス様を幽霊だと思ったようです。
- 嬉し過ぎて…そこでイエス様は、ご自身が肉と骨を持っていることを見せ、そして「よく見て、触ってごらんなさい」と促されました。すると弟子たちは、死んだはずのイエス様が目の前に現われた、あまりの嬉しさで信じられなかったのです。歴史上初めてのことで、現実を受け止められず、感情に振り回されている弟子たちの姿があります。
- 何か食べ物は…そこでイエス様は「何か食べ物がありますか」と弟子たちに言われ、手渡された焼いた魚を一切れ食べられたのです(同41-43節)。
- 復活のからだ…復活されたイエス様は、①ことばを語られ、②触れることができ、③食事をされました。復活の主は、幽霊でもなく、弟子たちの錯覚や夢でもなく、しかも単なる肉体でもない、合理的な理性では理解できない存在です。
- エターナル・ケア…超理性的な存在としてイエス様が顕現されたのは、イエス様が、私たちとの関係をいつまでも、どこまでも保ち続けてくださろうとする意志、みこころの表明でしょう。私たちがどんなに感情を取り乱しても、不適切で過ちを繰り返す者であっても、一人ひとりの存在をかけがえのない価値あるものとして霊的成長を助けてくださろうとする一貫した愛の現われです。不滅の愛です(マタイ18章12-14節)。
- 結び…今日もイエス様が、私たちと食卓(日常)をともにされ、深く心を向け続け、大切に見守り、霊的成長を育んでくださっています。
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