Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在、対面での礼拝とTeams/nobuyuki matsumoto でのリモート礼拝のハイブリッドで行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

UQ 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 02/23/2026 at 08:42, by matsumoto

《お知らせ》いとすぎ教会のブログ読者の皆様へ 2026.2.23

 

2026年3月から、いとすぎ教会の礼拝の持ち方が新しくなることに伴って、ブログへの投稿形式も変更になります。

今までは、メッセージタイトル、中心テーマになる聖書箇所および関連聖句、そしてメッセージ要約という形で、“みことばの料理”を提供する形でした。

3月からは、“みことばの食材”の提供という意味で、聖書朗読箇所(トーラー・預言書・新約聖書)と、400字程度での聖書箇所のポイント表記(形式は自由)を《ギホンの泉》として掲載することとします。

読者の皆様自身が“みことばを調理”して、その恵みを隣人と分かち合って頂けるなら幸いです。

 

Posted on 02/22/2026 at 17:27, by matsumoto

『幕屋、神殿、そしてキリスト』(ユダヤ人キリスト者と共に テルマ)2026.2.22

人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。(ヘブル書8章2節)《関連聖句》出エジプト記25:1–27:19(幕屋の建設命令)/①列王記5:12–6:13(ソロモン神殿の建設)/ヘブル書8:1–6、9:23–24(天にある真の幕屋)

◆はじめに…聖書全体を貫く驚くべき真理は、「聖なる神が、罪ある人間のただ中に住もうとされた」ということです。出エジプトの荒野で示された幕屋の細かな設計図(出エジプト25章)は、人間の宗教心の産物ではなく、主ご自身の熱意によるものでした。主は、遠くから眺める存在ではなく、民の旅路に同行する方であることを選ばれたのです。

◆型としての幕屋と神殿…移動式の「幕屋」は荒野のただ中に、ソロモンの「神殿」は定着したイスラエルの地に置かれました。これらは当時の人々にとって主の臨在の確かな「しるし」でした。しかし、神殿建設の際、主は「わたしの掟に歩むなら、わたしはあなたの中に住む」(列王記上6:12-13)と語られました。豪華な建物そのものが重要なのではなく、主との契約関係、すなわち「主の御言葉への従順」こそが、神の住まいの本質だったのです。

◆天の本体と真の実体…ヘブル書は、地上の幕屋や神殿は「天にあるものの写し(影)」に過ぎないと宣言します(ヘブル9:23)。これらは「モデルルーム」のようなものであり、その本体(実体)こそがイエス・キリストです。イエス様は、手で造られた聖所ではなく、天の本物の聖所へと入られました。幕屋の構造が示していた「神との隔たり」を、イエス様はご自身の命という一度限りの献げ物によって取り払われたのです。

◆私たちの内に立てられる聖所…私たちは立派な建物(教会堂)を必要としません。イエス様を信じる者の群れ、そして私たちの心こそが「聖霊の宮」です。幕屋が移動し、神殿が定着したように、人生のどんな局面(試練の時も平安の時も)においても、主は私たちのただ中に住まわれます。儀式や形式という「影」に留まらず、本体であるイエス様を見上げ、日々の歩みの中で主の御声に従うとき、私たちの日常が「神の住まい」となります。

◆結び…幕屋から神殿、そしてキリストへ。「神の住まい」は、イエス様において完成しました。私たちは今、どこにいても、イエス様を通して大胆に神の臨在の中を歩むことができるのです。今日、この瞬間、私たちの心の聖所にインマヌエルの主をお迎えできる恵みに感謝します。

Posted on 02/15/2026 at 08:53, by matsumoto

『心を尽くした愛の表現』(ユダヤ人キリスト者と共に ミシュパティム)2026.2.15

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ福音書5章39節)《関連聖句》出エジプト記 21:1-24:18/エレミヤ書34:8-22,33:25-26/マタイ福音書5:38-42,15:1-20

◆はじめに…私たちは職場や地域社会の対人関係の中で、理不尽な怒気を含んだ声を浴びせられたり、見下されたりしたとき、私たちの本能は「反撃」か「逃避(フリーズ)」を選択しようとします。しかしイエス様は「左の頬も向けなさい」と語られます。この御言葉が示す真意は一体、何でしょうか?

◆律法の精神…今日のパラシャの出エジプト記は、十戒(原則)を具体的な日常生活に適用した「社会法」です。ここに奴隷の解放や損害賠償の規定は、当時の近隣諸国の法典に比べ、極めて人道的です。たとえば「目には目」。これは復讐を推奨するものではなく、「受けた被害以上の報復をしてはならない」という報復の制限であり、公平な裁判の基準でした。

◆契約の破綻…エレミヤの時代、イスラエルの民は絶体絶命の危機にありました。彼らは律法に従い一度は奴隷を解放しましたが、喉元過ぎればで、すぐにまた彼らを奴隷に連れ戻しました。主はこれを「神の名を汚す行為」と呼び、契約を破った民に裁きを宣言します。しかし同時に、神は自然界の秩序が不変であるように、ダビデの末裔を通じた回復の約束も忘れないと語ります(エレミヤ33:25-26)。

◆律法の完成―報復を超えた愛…イエス様はこの「法」のあり方を根底からアップデートします。「目には目」という制限的な法をさらに進め、「悪人に手向かってはならない」「右の頬を打たれたら左も向けなさい」と教えます(マタイ5:38-42)。相手の暴力に怯え、言われるがままになる「屈服」でもなく、「目には目」でやり返し、憎しみの連鎖を拡大させる「報復」でもありません。左の頬を差し出すことで、右の頬を右手の甲で打つ侮辱的行為に対して、「私はあなたの奴隷ではない。私を打つなら、対等な人間として右の掌で打ち直せ」と、無言で自らの尊厳を突きつける振る舞いです。これは相手を憎まず、しかし悪には加担せず、勇気を持って自らの尊厳を維持し、加害者の良心に訴えかけるイエス様の道「積極的非暴力」です。

◆結び…「左の頬を向ける」とは、相手の暴力の次元に降りることを拒否し、神の国の正義(愛)の次元に相手を引き上げようとする、極めて能動的な愛の表現なのです。このイエス様の示される愛に生きるよう私たちは招かれています。

Posted on 02/07/2026 at 20:44, by matsumoto

『聖なる臨在に触れる』(ユダヤ人キリスト者と共に イテロ)2026.2.8

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい(ルカ18章25節)《関連聖句》出エジプト記 18:1-20:23/イザヤ6:1-13/ルカ福音書 18:18-30

◆はじめに…私たちは今、生きておられる主の「聖なる臨在」に触れるために礼拝に招かれます。招きに応える時、私たちはどのように新しくなるでしょうか。

◆「聖さ」の前に立ち、清められる…預言者イザヤは、セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なる」という叫びの中で、自身の「汚れ」を痛感し、「災いだ、わたしは滅びる」と絶望します。主の臨在は、私たちの自己満足や「自分は正しい」という思い込みを砕きます。しかし、主は絶望で終わらせません。燃え盛る炭で唇を触れ、罪を赦されました。私たちが「ありのままの自分」で主の前に立つとき、主は私たちを清め、新しくしてくださいます。

◆神の「秩序」を受け入れ、生活が整えられる…主の臨在は、内面を清めるだけでなく、私たちの「生活の秩序」を整えます。モーセはイテロの助言により「共に担う」共同体へと整えられました。主は私たちが孤立して燃え尽きることを望まず、共同体の中での調和を求められます。シナイ山で与えられた十戒は、私たちを縛る鎖ではなく、神の民として自由に、豊かに生きるための「愛のガイドライン」です。主の御言葉は、私たちの家庭、職場、人間関係の混沌に健全な境界線を引き、主を中心とした新しい秩序をもたらします。

◆「執着」から解放され、主に従う…金持ちの役人は、宗教的な形式(律法)は守っていましたが、心は「富」に支配されていました。イエス様は「持ち物を売り、貧しい者に施せ」と言われました。それは彼を縛っている執着から「解放」するためでした。自分の力で救われようとする者は悲しみと共に立ち去る他ありませんが、「人間にはできないことも、神にはできる」という約束が私たちには与えられています。私たちが握りしめている執着(プライド、不安、成功への固執)を主の足元に置くとき、私たちは真の自由へと足を踏み出すことができます。

◆応答としての歩み…イザヤは「汚れ」を、モーセは「重荷」を、役人は「富」を持って主の前に立ちました。主はそれらを、ご自身の光の中にさらけ出すよう招いておられます。独りよがりの歩みを捨て、主の秩序の中に身を置くことで生活が整えられます。自分の正しさを捨て、主の赦しの中に生きることで霊が清められます。そして執着を捨て、主を第一とする自由によって心が解放されます。

◆結び…「わたしに従いなさい」と、主は語られます。この招きに「ここにおります。私を遣わしてください」と、心からの応答を主に捧げたいと願います。

Posted on 01/31/2026 at 21:19, by matsumoto

『裂かれた岩から流れるいのち」』(ユダヤ人キリスト者と共に ベシャラフ)2026.2.1

しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。(ヨハネ福音書19章34節)《関連聖句》出エジプト記 13:17-17:16/士師記 4:4-5:31/ヨハネによる福音書 6:25-35,19:31-37

◆はじめに…出エジプトの民は、海と軍隊に挟まれ、完全に行き場を失いました。しかし、主はそこで「前進せよ」と語り、海を裂いて道を開かれました。私たちも、人生のある瞬間、もう無理だ、もう道がないと感じることがあります。しかし聖書は繰り返し語ります。「道がないところに、主は道を造られる」と。

◆荒野で与えられる“命の恵み”…海を渡った民は、すぐに荒野の現実に直面します。渇き、飢え、敵の襲撃。しかしそのすべての場面で、主は命を支える恵みを与えました。苦い水が甘くなる、マナが降る、岩から水が湧く、モーセの手を支える仲間が与えられる。荒野は、主が「命はわたしから来る」と教える場所でした。そしてイエス様は、「わたしがいのちのパンである」と語られます。主はついに、ご自身を与えるところまで来られたのです。

◆予想外の器を通して働く神…士師記のデボラとヤエルの物語は、主が自由に、予想外の器を用いられるかを示します。女性の士師デボラ、天幕に住むヤエル。彼女たちは当時の社会では周縁に置かれた存在でした。しかし主は、彼女たちを通してイスラエルを救われました。主は、「強い者」「立派な者」を選ぶのではありません。主は、“そこにいる者”を選び、立て、用いる方です。私たちが「自分には無理だ」と思う場所にこそ、主の働きが始まることがあります。

◆裂かれた岩、裂かれたキリスト…出エジプトの岩から水が流れたように、十字架のイエスの脇腹から「血と水」が流れました。荒野で民を生かした水は、十字架で裂かれたキリストの身体において、永遠の命の水へと変わりました。主は、海を裂き、岩を裂き、ついに、ご自身の身体を裂いて命を与えられたのです。

◆“裂かれた恵み”を受けて生きる…私たちの信仰は、「裂かれた者から命が流れる物語」です。モーセの弱さを支える仲間、デボラの歌に励まされる民 、ヤエルの勇気、荒野のパン、岩の水、そして、裂かれたキリスト。主の救いは、弱さ・裂け目・限界を通して流れ出します。私たちの弱さもまた、主が命を流す“泉”となり得るのです。

◆結び…私たちが立っている場所にも、海のような壁や、荒野のような渇きがあるかもしれません。しかし、主は今も道を開き、命を与え、予想外の器を立てる方です。そしてその中心には、裂かれたキリストの愛があります。私たちが受け取る恵みは、「いのちのパン」であるイエス様ご自身です。

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