Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)
どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。
《集会のご案内》
◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)
◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半
《教会活動のご案内》
◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)
◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)
◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)
◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)
◇マザーテレサ写真展企画
お問い合わせは、
au 090-9935-7053
まで。
上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。
なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。
ゆうちょ銀行
記号12110 番号346951
なまえ マツモト マツヨ
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 11/20/2024 at 21:57, by matsumoto
「(…)主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(創世記24章27節)
◆はじめに…昨日は、私の勤める社会福祉法人で全職員(参加者約150人)の『虐待防止研修会』がありました。はじめに九州看護福祉大学の先生の講義があって、その冒頭で、「残念ながら人間は虐待をする生き物なんです。グループの中で異質な存在があると排除しようとする。本能としてそういう気持ちを持っていると把握(意識)しておかないと、自分は関係ない、自分はやらないはずだと思い込んでしまい、結果、虐待をしてしまうことになる」と指摘されました。そして虐待に及んでしまう最も大きな要因が“怒りの感情”で、それに支配されないベストな方法は“一時、その場から離れる”ことだと話されました。
◆イシュマエルの追放…アブラハムとサラには長い間、子どもが与えられませんでした。悩んだ末、サラ(サライ)は、当時の社会の風習に従って、女奴隷のハガルを自分の代わりにアブラハムに側室として与え、結果、ハガルはみごもり、イシュマエルを産みました。この一連のことでサラとハガルの間に確執が生じ、サラはハガイを虐待しました(創世記16章6節)。その様子を見て、イシュマエルは育ち、サラに待望の子、イサクが生まれます。そしてイサクが乳離れの頃、イシュマエルが“イサクをからかっていた”現場をサラは目撃しまた(同21章9節)。この「からかう」というのは、ヘブル語は性的な表現です。サラは性的虐待の影響でイサクが子孫を作れなくなり、アブラハムの遺産と約束を受け継ぐことができないようになるのではないかと心配し、イシュマエル母子を出て行かせるようにアブラハムに訴えたと考えられます。その後あの“イサク奉献”の出来事が。
◆墓の購入と嫁捜し…そしてサラは生涯を閉じます。この時、アブラハムは1ミリの土地も所有していませんでしたし、後継ぎのイサクは40歳間近でしたが結婚していませんでした。主の約束はこの時点では何一つとして実現していませんでした。しかしアブラハムは悲嘆に暮れることはありませんでした。まず妻を葬るための洞窟を法外な値段を支払って買い取りました。そして後継ぎのイサクの嫁捜しを始めました。主は約束を決して反故にする方ではないと信じ切っていました。嫁捜しの命を受けた最年長のしもべは、嫁候補のリベカに出会ったとき、その驚きと感謝の思いを「主は私の主人に対する恵みとまことをお捨てにならなかった」(同24章27節)と主を礼拝しました。この箇所が恵みとまことが最初に出て来るところです。アブラハムに対する主の約束の始まり、源です。
◆結び…イエス様ご自身が恵みとまことに満ちておられ、イエス様において恵みとまことが完全に実現した(ヨハネ福音書1章14、17節)ことを感謝します。
Posted on 11/10/2024 at 21:15, by matsumoto
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
◆はじめに…今月11月は『児童虐待防止推進月間』です。すべての子どもは改正児童福祉法において①生きる権利②育つ権利③守られる権利④参加する権利が保障されています。しかし年間70人を超える子どもたちが虐待によって死亡しています。5日に1人のこどもが虐待によっていのちを落としていることになります。子どもは親や大人、社会の所有物ではありません。今日は、アブラハムの“イサク奉献”の記事から、主が、人間の作り出した世界の状況がどのようなものであっても、子ども(私たちも含め)を丸ごと愛で包み、神の国に招き入れて下さっていることを、共に覚えたいと願っています。
◆主の約束…アブラハムとサラは何年も子どもを待ちました。主が、「空の星、地の塵、海岸の砂粒のように多くの子孫が生まれる」(創世記13章16節、15章5節他)と繰り返し約束しました。子どもは生まれませんでした。サラはもう年老い、更年期を迎え、自然に子どもを産むことは不可能でした。サラは嘲笑しました(創世記18章12節)。しかし主は約束どおり、子どもイサク(=笑う)を与えられました(創世記21章1-3節)。
◆イサクをささげよ…ところが主は、「イサクをわたしにささげなさい」(創世記22章2節)と語られます。古代世界では、子供は両親の法的所有物と見なされていました。子どもには何の権利もなく、父親は子どもに対して何でも好きなことをすることができ、殺すこともできました。これが異教世界に広まっていた子どもの犠牲の習慣全体の根底にありました。それと同じようにイサクを犠牲にするように主はアブラハムに求めているのでしょうか? そうではなく、真逆です。子どもを親の自由に扱うな、子の所有権は私(主)にある、その意味で主は、「イサクをわたしにささげなさい(返しなさい)」と語られたのです。
◆主の備え…それで主はアブラハムに、代償(贖い)の羊を備えられました。そしてイサクの誕生と成長のすべてを与えて下さった主に、感謝と祝福の礼拝をささげた出来事が“イサク奉献”です。私たち一人ひとりも同様です。神の国に属する子どもとして、この世のすべての人間的支配から私たちを救い出して下さり、私たちが私たちらしく自由に、喜びをもって笑いながら今日を大切に生きられるよう、イエス様を備えて下さったのです。
◆結び…イエス様を私たちのために備えて下さった天地創造の主に栄光をお返しします。
Posted on 11/04/2024 at 08:00, by matsumoto
主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
◆はじめに…今日は『自分自身への旅』と題して、困難な状況でも希望をもち、自身の心に従って自由に、そしてイエス様の示して下さった道を、勇気をもって歩むということを御言葉から聞いていきたいと願っています。一昨日『ゴジラ-1.0』を、金曜ロードショーで観ました。設定は第二次世界大戦の末期。特攻の乗組員だった敷島が、零戦が故障したと偽り、島の基地に着陸。そこへ「ゴジラ」が襲撃。敷島は恐怖で銃を撃つことができず、敷島と橘以外の整備兵たちは死亡する。故郷へ帰ってきた敷島は、空襲で親を失った女性・典子と、彼女が空襲の最中見知らぬ他人から託されたという赤ん坊に出会い、共同生活を始める。敷島は現金収入を得るため機雷撤去の仕事に、典子も銀座で事務員に。その銀座へゴジラが。敷島は典子の救出に向かい一緒に逃げる。しかしゴジラの放出した熱線で発生した爆風から典子は敷島を建物の陰に押し込んで助け、自身は爆風に吹き飛ばされる。占領下で軍隊を持たない日本は民間人のみでゴジラに立ち向かうことに。敷島も参加しゴジラに勝利する。敷島の元へ一通の電報が届き、典子が一命を取り止めて病院にいるとの知らせで、明子を伴って病院にて典子との再会を果たす。「あなたの戦争は終わりましたか」と典子は敷島に語り、敷島は頷く。
◆故郷・家を出る…アブラハムの生まれ故郷はウルという月神礼拝の中心地でした。当然、アブラハムも月神シンを崇拝してしたことでしょう。故郷・家は、強力な“同調圧力”に晒され続けて自由が極度に制限されている環境です。「そこから出よ」と主はアブラハムに語られたのです。私たちも人生の様々な環境で、自由を制限する同調圧力に晒されます。それらは私たちの個性、可能性を潰します。ゆえに主はアブラハムに「そこを出て、わたしが示す地へ行きなさい」と御声を掛けられました。アブラハムにとって、それは月神シンとの闘いの始まりでした。私たちにとっては“内なるゴジラ”との闘いです。私たちの中に存在する恐れ、不安、ネガティブな感情です。新約聖書で言えば“666”でしょう。
◆同調圧力に抗うイエス様…死んだ魚は流れに身を任せます。しかし生きている魚は流れに逆らって泳ぎます。イエス様は宗教的、政治的な同調圧力に屈することなく、抗(あらが)いました(マタイ22章15-21節参照)。真理を告げ、愛をもって接し、奇跡を行ない、弟子を育てました。そして十字架に掛かり、私たちを罪から解放して下さいました。主がアブラハムに約束の地を示して下さったように、主が神の国への確かな道を示して下さいました。私たちの周囲には何も立ちはだかるものは無いのです。勇気をもって、歩み出せ、そう主は語っておられます。
◆結び…信仰と希望と愛を私たちの内に与えて下った主に感謝します。
Posted on 10/29/2024 at 05:52, by matsumoto
箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。(創世記6章16節)
◆はじめに…ここ最近、お祈りの要請を頂くことが多くなりました。主のご計画があることと信じ、毎日、それぞれの方々の課題を覚え、祈り続けさせて頂いています。きっと主が一人ひとりの歩むべき道を啓いて下さると信じます。今日は『箱舟(みことば)から踏み出す』と題して①箱舟が救いの場所であり、②それはみことば(イエス・キリスト)であり、③祈りが困難を乗り越えて前進する勇気になることを、共に聞いていきたいと願います。
◆箱舟に入る…ノアの名前の意味は“慰め”です。イエス様もおっしゃいました。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5章4節)と。主ご自身が私たちの辛さを慰めて下さいます。一方、主は、悪が増大したことで、人と天地を造ったことを「悔やみ」「残念に思う」(創世記6章6、7節)と心を痛められたことが記されています。この「悔やみ」「残念に思う」という言葉は原語では「慰め」と同じ言葉なのです。“悔いと慰め”が箱舟建造の動機です。この箱舟を荒れ狂う水(=私たちの心の中の不安)が持ち上げ、史上最大の洪水の際の避難所(シェルター)となりノア家族一行の生命を守りました。
◆箱舟&天窓=世の光なるイエス様…この避難所なる箱舟には天窓が据え付けられていました。「箱舟」(テイヴァ)は“ことば”と訳すことができます。また「天窓」(ツォハル)は“輝き”を意味することから、あるラビは“自ら輝く奇跡的な宝石”と解釈しています。とすると、私たちはピンと来るのではないでしょうか? そうです。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」(ヘブル1章3節)。みことばによって私たちを保ち、世の光として私たちを導かれるイエス様が、私たちにとっての箱舟だということを。
◆箱舟から出る…洪水が始まってからほぼ一年経って、地は乾き切り、そこで主がノアに「箱舟から出なさい」(創世記8章15-16節)と語られました。ただこの時、主は穏やかに告げたのではなく、厳しく、批判的に語られています。聖書には「ノアは神とともに歩んだ」(創世記6章9節)と記されてあり、後に登場して来るアブラハムには「わたしの前を歩め」(同17章1節)と主が語られました。ここから私たちが聞くメッセージは、信仰とはただ従うのではなく、失敗を恐れず、不確実で困難な世に自らの選びと責任で踏み出す勇気です。
◆結び…イエス様のみことばに耳を傾け、信仰を持って生きることで、どんな困難な状況でも乗り越え、豊かな人生を送ることができることを感謝します。
Posted on 10/20/2024 at 17:43, by matsumoto
神である主は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3章21節) /義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする(イザヤ42章6節)
◆はじめに…今日は、『創造主のみこころ』と題して、①神様の創造と愛、②皮衣と光り衣、③キリストを着る、ということで、神様が私たち人間を深く愛し、救いの道を示して下さっているということでメッセージを聴きたいと願っています。さて昨日、私の勤めている社会福祉法人の障害者施設で“恵愛まつり”というイベントがありました。ちょうどユダヤ教の三大祭りのひとつ“仮庵の祭り”の時期になります。その仮庵の祭りの最終日が“シムハット・トーラーで、シナゴーグでは年間トーラー朗読の最初箇所、創世記1章からの天地創造の箇所が読まれ、トーラーの巻物を抱えて、会堂の周りを踊りながら進みます。
◆神・神である主・主…神(エロヒーム)は、六日で天地万物(自然環境)をお造りになられたお方です(創世記1章)。神である主(ヤハウェ・エロヒーム)は「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2章7節)と粘土で像を形作る彫刻家のように創造され、『人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』(創世記2章18節)と、最初の人間が自分自身で孤独に気づく前に、最初の人間の孤独を知っておられるお方です。
◆皮衣=光の衣…主なる神は、最初の人間、アダムとエバを、その罪ゆえにエデンの園から追放した厳しい神のイメージが強いと思います。しかし、私たちが罪を犯す弱い存在だからこそ、「皮衣」を着せて下さり、自らの弱さ、限界を認め、主に依り頼んで歩む霊的成長の過程を傍らにいて伴走して下さる親愛の情に溢れるお方です。そのお方を私たちは“主”と呼びます。この主が、アダムとエバに与えて下さった「皮衣」を“光の衣”と1世紀の賢者ラビ・メイアは解釈しています(「皮」と「光」はどちらも“オール”と発音する)。主がイエス様だと信じる私たちは、「皮衣」からは“贖い主なるイエス様”を想い起こしますし、「光の衣」からは“世の光なるイエス様”(ヨハネ8章12節)を想い起こします。
◆キリストを着る…私たちに主が与えて下さったのは私たちの罪の贖いのために十字架に掛かられたイエス様ご自身です。そのことをパウロはローマ書で「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ書13章14節)と言っています。また12節では「光の武具」と言っています。私たちに与えられた“皮衣”“光の衣”は主イエス・キリストです。新しい服を着ると私たちは、心躍り、内側から輝きます。
◆結び…私たちに新しい服、皮衣、光の衣を与えて下さった主に感謝します。主イエス様が語られた「罪に定めない」「裁かない」「すべての者を救うために来た」と言う福音を、身をもって世に顕す日々となるよう祈ります。